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わたしの葬りのために

2023.2.26.  

詩編22:2‐3、ヨハネ12:1‐8

「わたしの葬りのために」 浅原一泰

 

トルコ・シリア国境付近で起こった大地震による犠牲者が50000人を越えた。数の問題にしてはならないことは心得ているつもりであるが、十二年前に起こった東日本大震災の犠牲者が約17000人であったことを思うと、その被害の大きさに言葉を失う思いがする。犠牲者だけの苦しみではないことも伝えられている。寒さ厳しいこの季節において、住む家をなくし、愛する家族をなくし、働く道をも奪われ生きる術を失った数えきれない多くの方々がいる。犠牲者一人一人に対し、また苦しみのどん底に直面している多くの人々に対し、たまたま災害を免れたに過ぎない人間はどう向き合うべきなのだろうか。少なくとも十二年前、地盤の緩い裏山に逃げるよりも安全と判断して学校の校庭で待機したのにもかかわらず、想像を超える津波に呑み込まれて犠牲となった石巻市の大川小学校の先生方や生徒の皆さん、最後まで残って津波が来ることを必死に拡声器を通じて叫び、早めの非難を呼びかけ続けたために自らが津波の犠牲者となった陸前高田市の女性職員の方を始め、犠牲となった方々の死を決して忘れるべきではないのだと思う。

また一昨日はロシアによるウクライナ侵攻が始まってから丁度一年を迎える日であった。一向に戦争は終わる見通しは立たない。プーチンが自らの正当性を主張し、断固としてこの戦争に勝利することを宣言したのに対して、ウクライナのゼレンスキーは犠牲となった兵士たちの死を悼みつつ、彼らの死を決して忘れない、欧米から最新の武器兵器が援助されることで必ず勝つのは我々だ、と宣言していた。大統領として彼がそう言うのはもっともなことなのだろう。ロシアがしてきたことが決して正当化されてはならないとも思う。この戦争で犠牲となったウクライナの市民は8000人を越えたという。ロシア側の死傷者は20万を越えているという報道もある。ただ、頭では分かっていても我々は誰もが現実の中にある。何時までも鮮明にこの悲惨な現実を記憶にとどめておくことが我々にできるのだろうか。時の流れと共に目先のことや自分のことに思い煩い続けるあまり、12年前の震災の悲劇の記憶が薄れていくことを感じさせられてきたのは私だけではないと思う。

 

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。先ほど読まれた旧約の詩編22編の2節の元々の言葉はこれであった。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」。お気づきになった方がおられると思う。実はイエスが死の眠りに就く間際、あの十字架の上で最後に残した言葉がこれであった。マルコ福音書によれば、その後はイエスは言葉にならない大声を上げて息を引き取られた、と伝えられている。ウクライナでの戦争において、トルコ・シリア国境付近で起こった巨大な地震において、またコロナに感染した為に犠牲となった方々の命は帰っては来ない。東日本大震災の犠牲者もそうである。しかし人間の記憶は、やがて薄れてしまうことになるだろう。だからこそ、神が人となったイエスその人が、夢が絶たれて犠牲とならざるを得なかったすべての人のために、圧倒的な破壊力でもって自らの命に終止符を打たれた彼らの代わりとなって、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んでおられたのではないだろうか。神であるこの方が敢えて人間と同じ姿形を取ってまでして、人間として息を引き取る直前の最後の最後に、同じように死を迎えざるを得なかったすべての者のために、その人に代わって「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と祈っていた。そして人となった神自らもまた死の苦しみを受け入れた。そう思うのである。

 

もう一か所、ヨハネ12章から、非常に高価なナルドの香油をイエスの足に注いだ女性の話が読まれた。マリアというこの女性は、値しないこの自分のためにもイエスが身代わりとなって犠牲の死を遂げることをおそらく直感的に感じていたようである。だからこそ、自分の持てる限りの最大のものを、いや、たとえ自分の分を越えているとしても、イエスに対して最高のもてなしをしたい、そうすることによってあらん限りの敬いの気持ちを表したい、そんな思いから彼女が振舞った仕草。それが非常に高価なナルドの香油をイエスの足に注ぎ、自らの髪の毛でそれを拭うことであった。

しかしながら、イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダがここで異を唱えた。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。ご存じの方もいるだろうが、当時の1デナリオンというのは、一日の労働賃金に相当した。300デナリオンと言えば、その人の年収に近い金額であったかもしれない。一年分の年収をたとえばトルコ・シリアの被災地のために、或いはウクライナ支援のために、一気にささげることが果たしてできるだろうか。そう考えてみれば、この時のマリアのとった行為がどういうものであったか、イメージしやすいと思う。このマリアの行為は、おそらく現実的な価値判断からすれば狂気に近い無駄遣いであっただろう。ユダの言葉は実に最もなことだと周囲の人々は思っただろう。しかし彼女にとってそれは私利私欲の一切ない、物惜しみしない行為であった。しかもそれを彼女はイエスの足に注いだ。丁度ひと月前の礼拝で、イエスが弟子たちの足を洗う場面についてお話しした時にも申し上げたが、当時、足というのは人間の体の中で最も汚れた部分、卑しい部分であった。高価な香油をイエスの足に注いだということは、どんなに高価な香油であっても私はそれをあなたの汚れた足にさえ注ぐ価値もない人間だ、というマリアのこの上ない遜りの思いの現れであった。人となった神イエスが罪ある者すべてのために、この私のためにも十字架で身代わりの死を遂げられる。それに対して、自分は何をもって応えられるだろう、たとえ高価な香油をこの方のせめて足だけにでも注がせていただいたとしても、それでも十分にこの方の犠牲の死に報いたことにはならない、それが分かっていてもそうせずにはいられない。それほどまでもイエスの十字架の死を崇めるマリアの姿勢であった。マリアのためだけでなく、この方は戦争、自然災害、病、事故、予期せぬ災いによって命を落とさざるを得なかったすべての者のために、彼らに先立って、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜ我を見捨て給うや」と祈って下さっている。神でありながら、神の身分に固執することなく人の姿となってこの方は死の苦しみをも共に受けて下さっている。しかも神はこの方を死からよみがえらせた、復活させられた、と聖書は言う。十字架の犠牲の死は理解できるが、それだけは受け入れられないと多くの人々を躓かせるイエスの復活は、本当は何を物語ろうとしているのか。誰もが死は避けられない。現実に今、世界で多くの命が死に呑み込まれた。しかし神が一人一人に与えた命は、死で終わるものでは決してないこと、死に直面しようがしまいが、死に呑み込まれようが呑み込まれまいが、その人の命はそれに惑わされることなく、死を越えて光り輝き続けること。その人の命、生き方、思い、言葉は死を越えて必ず次の世代へ、世に残された者たちへと受け継がれていく。そのことを物語っているのだとしたら、それでも復活は荒唐無稽な作り話になってしまうのだろうか。聞く価値もない、と退けられてしまう話でしかないのだろうか。そう決めつけてしまう人間を聖書は、見た目には生きているように見えても「死んでいる」と言っているのではないだろうか。

 

イエスはこういう言葉も残している。「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのため、福音のために命を失う者はそれを救うのである」と。言い換えるならば、こうなるだろうか。死んだら終わる肉の命、表面的な命にしがみついている者は、死んでも終ることのないイエスの命に気づけないまま、そこへと至らないままで終わってしまう。しかしイエスの命を信じて受け止めるならば、たとえその人の肉の命が終わっても、その人の中にあるイエスの命は輝き続けるのだ、と。表面的な命しか知らない頃は十字架の上で処刑されたイエスを見下し、教会を迫害しまくっていたが、復活したイエスに出会って、死んだら終わる肉の命にしがみついていた自らの愚かさに気づかされ、死んでも終ることのないイエスの命に生かされ始めたパウロという人物がいる。キリストの敵であった彼はキリストの僕へと変えられ、聖書の中で七つもの手紙を残す最大の使徒となった。ある手紙の中で彼はこう書き残している。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)。教会の敵であったパウロの生きる方向を変えさせ、こう言わせたこと。彼を生き返らせたこと。それこそが、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのか」というイエスのあの祈りに対する神の答えではないか。神は自らを犠牲にしても、パウロを始め一人一人の命を決して見捨て給わない。イエスを死なせてまでして、死んでいた者の目を開かせ、イエスの命へと生まれ変わらせる。生き返らせる。我々クリスチャンにとって、そのイエスの命こそが信仰であろう。肉の命しか知らなかった我々がイエスの命へと生まれ変わらされた。それこそが我々にとっての洗礼であり、回心であり、信仰のスタートであった筈である。そして世にあるすべての人々のため、特に戦争や地震、病のために犠牲となった一人一人のためにもイエスは祈り、神はその人々にイエスの命を既に与えている、と信じたいのである。

 

そうであるならば今や、表面的にはもっともらしく聞こえたイスカリオテのユダの言葉は実に陳腐に聞こえては来ないだろうか。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」聖書は説明を加えている。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と。ユダにとっては、イエスの死など他人事でしかなかった。それよりも金や権力や名声といった世俗的な価値の方が有益だと彼は信じて疑わなかった。貧しい人を取り上げたのも自分に目を向けさせるためであった。自分の利益のために彼はイエスを裏切ることになる。しかしイエスは、裏切らせることで我らの身代わりとなって十字架にかかり、死で終わることのない真の命を証しして下さるのである。

 

 

先週の水曜日が灰の水曜日であった。この日から全世界の教会はイエスの死の苦しみを覚えるレント、受難節に入っている。世の中から狂気の沙汰だと批判されたマリアを「わたしの葬りのためにしてくれたのだ」とイエスは認められたことを心に刻みたい。死んでいた我々を、イエスの命へと生まれ変わらせ、立ち上がらせるため、憎しみや敵意や死の世界ではなく愛と平和の世界へと既に犠牲となった方々を始め、全ての者を誘うためのイエスの十字架であることを覚え、マリアのように、我らもあらん限りの信仰と祈りでもって、イエスの愛に応える者とされたい。