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新しい契約

エレミヤ313134、Ⅱコリント316「新しい契約」

2023212日(左近深恵子)

 

エレミヤは、若き日に預言者として神さまから立てられ、南ユダ王国の人々に主の言葉を語りました。その長きに亘る働きは、辛いこと多いものであったでしょう。イスラエルの民は神さまに従う道から離れ出て、周囲の民のように偶像を礼拝するようになってしまいました。エレミヤは、王や民から嘲笑や迫害を受けながらも、神さまの言葉を語り、神さまに立ち帰るように呼びかけました。しかし人々は悔い改めようとしません。ユダ王国に、新バビロニア帝国が侵攻し、都エルサレムは陥落し、信仰の拠り所であった神殿は焼かれ、民の主だった人々や帝国にとって役立つ人々がバビロンに強制的に移される「バビロン捕囚」が起こります。イスラエルの民の歴史が大きく転換し、より厳しい状況へと移り行く時代でありました。

 

 エレミヤは、この時代に行き、この時代を見つめ続けました。滅びへと進む現実にエレミヤ自身も苦しみながら、今自分たちが置かれているこの歴史に何が起こっているのか、時代の表層だけでなくその根底にあるものまで見つめました。それは、神さまの眼差しに従うような姿勢でありました。預言者として神さまから召された時、エレミヤは、自分は語る言葉を知らないと、自分は若いからと、抗いました。そのエレミヤの唇に、神さまは言葉を授けられました。語る言葉は、神さまがエレミヤに授けられるのです。そして「私は、私の言葉を成し遂げようと見張っている」、「私の言葉を実現するために見張っている」と言われました(112)。神さまが、み言葉が実現されることを見張っておられる、その神さまが何を為そうとしておられるのか、見出そうとエレミヤも目を凝らしたのでした。

 

 南ユダ王国が滅びへと向かって突き進んでいる時、エレミヤは民の罪に対して主が審きを下されると、真の神に立ち返るようにと呼びかけました。かつてエレミヤを預言者として召された時、神さまはエレミヤに、「諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために」と告げられました(110)。エレミヤが民に先ず語らなければならなかったのは、ユダ王国が「抜き、壊し、滅び、破壊」されるという、厳しい言葉でありました。

 

やがて、新バビロニア帝国によってユダ王国は、抜かれ、壊され、破壊され、滅ぼされ、災いがもたらされました。神殿は廃墟と化し、都は荒れ果て、城壁は崩れ、民は互いに引き裂かれたままの状態が何十年も続くことになります。けれど、自ら滅びへと突き進む民に神さまが審きを下されたのは、滅ぼし、終わらせるためではなく、新たに「建て、植えるため」でありました。エレミヤは人々に、回復を語るようになりました。

 

ユダ王国の人々は世界の各地に離散し、それぞれ他国に支配される民として年月を重ね、世代が変わり、かつての祖国の姿もかつての共同体の姿も知らない世代が増えてゆく中で、民の間に諦めが広がっていきます。主の言葉に生きることに揺らいでゆきます。

 

 喪失は、誰にとっても痛みであります。一つ一つの喪失は小さくても、重なれば私たちに重く圧し掛かります。それでも日々新しく生きて行こう、私たちはそう願います。しかし願うように生きられない、自分の内から新しさなど出てこない、新しさを掴む力も足りない、そのような時があります。まして、大きな喪失が私たちに与える衝撃は、自分が思う以上に私たちの痛みとなります。それまで自分の生き方を支えてきた主柱のような存在や、人や、環境を失えば、心身共に弱ってしまうほど私たちは打撃を受けます。

 

 イスラエルの民が失ったのは、祖国であり、共同体でありました。神さまが与えてくださった信仰と生活の中心である神の都エルサレムも、神殿も失いました。それまでの生活から引っこ抜かれて散らされ、それまでのつながりを失うことは、どんなに深い痛み、大きな恐怖であったでしょうか。危機に陥っても、神の民である自分たちを、神が滅ぼすことなどないと、神がきっと何とかしてくださると、そう思い込んできた期待も崩れ去りました。その内祖国に帰れるのではないか、そうして祖国を再興することができるのではないかという希望は、年月の経過と共に諦めに呑み込まれ、心や体だけでなく魂も弱り、疲れ、衰えていきました。毎日新しい一日が訪れますが、日は新しくなって、自分を自分で、新しい力に満ちた自分に造り直すことなどできず、自分の本当の在り方、生き方の軸を現状の方へと寄せ、その中に埋没し、本当の希望は持たずに生きている、そのような神の民に、エレミヤは「疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」、回復を告げる主の言葉を語ったのです。

 

神さまは今日の箇所で、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と言われます。北王国イスラエルは既に滅び、イスラエル12部族のうち10部族は歴史から姿を消しています。南王国も、今や滅亡の危機に瀕しています。歴史の表舞台で、以前通りの名称と勢力で存在することはもはや叶わなくなっています。そのイスラエル12部族全体と契約を結ぶと言われます。政治的な国家としての枠で民に呼び掛けられるのではなく、イスラエルの「家」、ユダの「家」と、神さまを礼拝する神の家族として、呼び掛けておられます。

 

 人々の回復は、神さまが結んでくださる契約によってもたらされることが告げられました。「契約」とは、神さまと人間の関係がどのようなものであるのか示すものです。ここで告げられているのは、契約の細かな内容ではありません。そのような細かな内容の根拠となるもの、神さまと人間の関係の大元にあるものが示されています。

 

 神さまは、「新しい契約を結ぶ日が来る」と言われているように、これまでも神さまが結んでくださった契約がありました。それらの契約の中で、神さまがイスラエルの民全体と結んでくださった、主がイスラエルの民をエジプトの地から導き出したときに立ててくださったものが、契約の中心でありました。ファラオの支配の下、奴隷とされ、神さまを礼拝し、神さまに祝福された命を生きる自由を奪われていたエジプトの地から神さまは導き出してくださいました。神さまのみ業が「手を取って」と言われています。苛烈な日々から民を救い出し、厳しい荒れ野の旅路を導かれる、神さまの力と慈しみが伝わってくるような表現です。そうして荒れ野のシナイの山まで導かれると、神さまは民の指導者として選び立てたモーセを通して、民に、神さまが、ただお一人の主人であることを示されました。民の主人は、それまで民を奴隷にしてきたファラオでも、ファラオの権力の下でこの人々を奴隷として酷使してきた人々でも、他の大国の王や強い力を持つ誰かでもなく、救い出された神さまです。更に民をご自分の民、神の民とすると告げられました。この契約に、この神さまとの関係に生きるならば、「あなたたちは全ての民の間にあって 私の宝となる」「あなたたちは私にとって 祭司の王国、聖なる国民となる」と告げられました(出1956)。

 

 けれど人々はこの契約に生きることができませんでした。神さまは契約を守り続けてくださいました。しかし人々は、神さまを唯お一の主人とするより、自分たちが自分や他者の主人となろうとし、契約は破られてきました。救い出して自由の内に新しく生きる者としてくださった、その神さまが与えてくださった契約を破るということは、神さまを退けることでありました。神さま抜きに、生きていくことができるとすることでした。それは、契約を土台に神さまが示してくださった、神の民としての生き方を示す道標である十戒や律法の根底にあるものを捨てることでもあります。根底にあるものを退けた十戒や律法は、戒めや規定が記されている規則集のようなものに過ぎなくなってしまいます。歩みを示し、支えるための揺るぎない基盤を見失い、各々が良しとする基準で、その都度、都合の良い道を探し、自分の歩みの本当の根拠が分からず、彷徨ってしまいます。神さまが与えてくださった神さまとの結びつきに自力で戻ることもできません。こうして人々は、神さまが結んでくださった契約を、修復不可能なまでに破ってきたのでした。

 

 イスラエルの民には結び直すことのできない破れた神さまとの関係を、神さまが新たにしてくださいます。神さまは、イスラエルの民との関りを諦めておられません。「建て、植える」方へと導いてくださいます。「新しい契約」を与えてくださり、新しい神さまとの関係の中に入れてくださいます。

 

 この契約の新しさは、契約の授けられ方にあります。シナイで与えられた契約は、石の板に記されました。民はそれを覚えることで、心に刻みました。新しい契約は、「胸の中に授け、心に書き記」されます。新しい契約は人々の内側に授けられます。神さまの言葉を受け留め、思い巡らし、行動へと移る、人の営みの座である心に書き記されます。ともすれば剥がれ落ちてしまうような、心の表面に張り付けるような仕方ではなく、かつてシナイで神さまが堅い石に契約を刻んでくださったように、人の心に刻まれます。心が神さまによって新たにされます。存在の奥底から新しくされ、存在の奥底で神さまと人格的に出会うことができる者とされます。一人一人を、こうして神さまが新たにしてくださり、神さまとの関係に生きることができる者としてくださるのです。

 

 だから、もはや人々は互いに「主を知れ」と教え合う必要がなくなります。「主を知る」とは、神さまについての知識を得るということではありません。知識を通して主のみ言葉の理解を深めること、そのために互いに教え合い、学びを重ねることは、信仰生活を送るために必要な大切な務めです。けれど知識だけでは神さまを知ることはできません。澱んだ思いも抱えている自分の存在の奥底で、神さまと人格的に出会い、神さまがどのような方であるのか受け留め、この神さまにお応えしようとする、「知る」とは、この神さまとの関係を知り、神さまとの関係に生きることです。神さまとのつながりに生きれば、より神さまを知ることができ、そうしてより親しい関係に生きることができる、このようにして知ることが深まっていきます。契約を刻まれた心で人は神さまの言葉を聞き、神さまの言葉に打たれます。音が壁にぶつかって反響するように、神さまの言葉が人の心に響き、反響し、外へと福音が溢れ出す。そうして神さまにお応えする言葉や行動となり、誰かに神さまを伝える言葉や行動となっていく、そのようにして主を深く知りながら歩むのです。

 

 神さまは契約を新たに結んでくださると告げられました。それは、かつてのシナイでの契約を退けることではありません。これまでの契約とは断絶した全く違う契約を結ばれるのではなく、これまでの契約を土台に、契約を更新されます。シナイの契約でそうであったように、イスラエルの全ての民と契約を結んでくださり、シナイの契約でそうであったように、契約が向かう目標が主を知ることにあることを告げられます。新しい契約はこれまでの契約を受け継ぐものであることが示されます。そして新しい契約では、主の恵みがより決定的に示されます。シナイの契約も、人々に救いを与えたいと願ってくださり、民の罪を赦される主のご意志によって与えられました(出エジプト3467)。その契約に不備があったわけではなく、人々によって一方的に破られてきた契約が新しく更新されるのも、ただ主のご意志によります。シナイの契約でも主の赦しが示されていましたが、新しい契約ではより明確に主の赦しが契約の礎となっています。「私は彼らの罪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」とまで主は言われます。制限の無い赦しによって神さまはどこまで背負い込まれるのでしょうか。この神さまの赦しと恵みによって、人々を救う契約が約束されたのです。

 

 キリストによって救いが与えられている今、神さまが背負い込まれたものがあまりに大きいことに、私たちは打たれる思いです。契約に背く生き方を捨てきれない私たちの罪を赦すために、神のみ子の方から私たちの方へと来られ、私たちの只中に人として宿られ、ご生涯を捧げ、命まで捨てられました。神さまが私たちの代わりに罪を背負って罪人として十字架で処刑される、この思いもよらないみ業で罪の赦しをもたらしてくださいました。新しい契約が、キリストの十字架と復活によって成し遂げられたのです。

 

キリストは最後の晩餐でパンを裂き、使徒たちに与え、杯も同じようにして「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」「飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。「だからあなたがたは、このパンを食べこの杯を飲む毎に、主が来られるときまで、主の死を知らせるのです」と教えられます(ルカ2220、Ⅰコリ1125)。キリストが守ることを命じられた、キリストの十字架の出来事を記念し、知らせる聖餐において、新しい契約は私たちの心に新たに刻まれるのです。

 

 

イスラエルの民から異邦人へとキリストの救いの契約が広がり、私たちも神の民に加えられています。罪の赦しがもたらされている平安、神さまの恵みの内に神さまとのつながりに置いて生きる幸いを、神の民は聖餐に与り、主の言葉に触れる度、新たにされます。そのように私たちに信仰を与え、その人を信仰者として新たに創造してくださっているのは神さまです。私たちが振り返れば、多くの人が私たちに神さまを、キリストを、伝えてくれました。神さまが私たちに、様々な人を通して神さまとの出会いを与えてくださり、聖書の言葉を伝え、その人々の信仰に触れる機会を与えてくださいました。第二コリント書でパウロが述べているように、信仰者自身が、福音を宣べ伝える人々の推薦状であり、またキリストを証しする手紙です。「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板にではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(Ⅱコリ33)。私たちと言う手紙が伝えるのは、主イエスこそ、私たちの救い主であるということです。神さまの契約を一方的に破り続けてしまう惨めな私たちを、神さまは見捨てられず、新しい契約によって赦し、キリストによって神さまの民としてくださっている、神さまの子どもとしてくださっているという喜びの知らせを誰かに伝える、私たちは神さまからの手紙です。虫に食われることも粉々に砕け散ることも無い心の板に、色褪せることの無い、永久に鮮やかに残る生ける神の霊によって刻まれた福音が、私たちの心に刻まれています。生ける神の霊に福音を刻まれた心は、神さまにお応えしよう、誰かに伝えようとする鼓動となって、私たちの言葉となり行動となっていくのです。手紙である私たちは、差出人である主を証しし、内に刻まれた福音を、生ける言葉成るキリストを、主がこの手紙を送ろうとしておられる誰かに伝えたいと願います。