· 

この上なき愛

2023.1.29. 主日礼拝

ホセア11:8‐9、ヨハネ13:1‐8

「この上なき愛」浅原一泰

 

ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

 

 

 

我々人間社会は、どんなに価値のある良いものであっても、それが神の教えであったとしても、それを重んじて自らが守るために使うのではなく、むしろそこから外れた行動を取っている人間を容赦なく裁くために使ってしまうところがある。ワイドショー、ネットのニュース、週刊誌の大方はそのような話題で成り立っている。仲良しとの知り合いとの世間話だってそうではないだろうか。正直に申し上げると、私も何か自分の想定している許容範囲から逸脱している人を見ると、例えば私は牧師であるためについ、「聖書にはこう書いてあるのに」という尺度で今まで何人もの人を心の中で裁いてしまってきた。しかしそれは二千年前のイエスの時代から変わらない人間の本性のようにも思う。先週の倉持おりぶ先生の説教に出て来た、ヨハネ5章に出て来るベテスダの池のほとりで、イエスによって不自由な足を癒してもらった男性。おられなかった方々の為に簡潔にまとめると、池の水が動いた瞬間、初めに水に触れた患者は病が癒されるという言い伝えを信じて38年間もの間、待ち続けていた男性は、足が不自由な為に常に誰かに先を越されてしまい、結局は癒されないままの鬱屈した状態にあった。その彼を見つめて、「良くなりたいのか」と問いかけられ、「起き上がって歩きなさい」と語りかけて癒したイエスの愛の深さをおりぶ先生は懇切丁寧に解き明かして下さったが、実はあの話には続きがある。あの男性はイエスが誰であるのか、何も知らなかった。先週は読まれなかったが、その先の聖書を読むと、彼が癒してもらったのは安息日であったのでユダヤ人たちが騒ぎ始めた、とある。それは、「安息日には何もしてはならない」という先祖代々から伝わる神の掟があったからである。掟を破って安息日に病気を治した人間がいる。これは大問題だ。人々は声を挙げ始める。そこで社会のイニシアチブを握っていたユダヤ人たちが「安息日にお前の足を癒したのはどこのどいつだ」とその男性に尋ねる。しかし彼はイエスのことを何も知らないので、初めは答えられない。そこでユダヤ人たちは「使えない男だ」と舌打ちをしたかもしれない。白い目で見る者たちだっていたかもしれない。彼自身も、そういう周囲からのプレッシャーを受けて辛い気持ちになっていたかもしれない。するとその後、もう一度イエスは彼の前に現れる。そして彼に語りかけた。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。イエスからそう語りかけられた時の彼は、一つの「分かれ道」に立たされていた、と言って良いと思う。それは分かりやすく、もっともらしい安全策を取るか、それとも、はっきりは分からないけれども心の片隅に訴えるものを取るか、それがイエスの言葉であったわけだが、そのどちらを選ぶかの分かれ道である。ユダヤ人たちから浴びせられる白い目におそらく耐えられずにこの男性は、自分を安息日に癒したのはイエスだとユダヤ人たちに伝えてしまう。その直後にユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた、と聖書は伝えている。人を救う筈の神の掟を捻じ曲げる。はっきりとは分からない神の掟よりも分かりやすい安全策を選ぶ。それがこの世の価値観というものであろう。アダムとエバが食べてはならない木の実を食べたのも同じこの世の価値観から、である。しかし実は、それこそがイエスが覆そうとしたものだったのではないだろうか。すべてをかけて人間をその束縛から解き放とうとしたものだったのではないだろうか。迫害する者たちに向かってイエスは語っていた。「私の父なる神は安息日であっても休まずに働いている。だから私も働くのだ」と。

 

先ほどぽろっと「分かれ道」ということを申し上げた。右か左か。前に進むべきか引き返すべきか。一気に仕掛けるべきか耐えて待つべきか。人生は選択の連続である。間違いのない、悔いのない選択をしたいと思わない人はいないと思うが、現実はそうは上手くいかない。そうでなければ、「後悔先に立たず」ということわざが今なおあれほどの説得力を持つ現実を説明できない。何を隠そう、私も間違うことの連続であったし、これからもそうかもしれない。ウクライナ侵攻が開始されてもうじき一年が経とうとするのに、未だに戦争を終わらせられず、平和、平和と叫びながらも依然として世界に平和を確立することが出来ない人類そのものが、間違い続けていると言って良いかもしれない。だからこそ、目には見えなくても私たち人類に語りかけて来る存在。安息日であろうがなかろうが関係なく、死の床についていようがいまいが関わりなく、道を踏み外しそうになっている人間に慈しみをもって語りかけて来る存在。聖書が証しするイエス・キリストとは、そういう存在なのではないだろうか。

 

先ほど読んでいただいたヨハネ13章で、イエスは自分がこの世を去って神のもとへ帰る時、つまり十字架の死を遂げる時が来たことを悟った、と言われていた。それで世に残す弟子たちのことを、この上なく愛し抜かれた、と記されていた。その一方で悪魔が、2節のところで既にイエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダに、イエスを裏切る意志を抱かせていた、とある。ここにも分かれ道が現れていた。イエスからのこの上ない愛を心を開いて受け入れるのか。それとも自分で自分を守る選択をしてイエスを裏切るのか、という分かれ道である。たとえ裏切る者がその中にいようとも、その者を排除するのではなく、このユダをも含めてすべての弟子をイエスは愛し抜いていたことに注目したい。そのすぐ後の13:3では、イエスは神からすべてを委ねられたことを悟ったとある。それは、すべてが自分の思いのままに出来る、ということである。ユダが自分を裏切ろうとしていることをイエスは知っていた。であるならば、自分の身を守りたいなら、分かりやすくもっともらしい安全策を取りたいのなら、つまりこの世の価値観に従うならイエスはユダを縛り上げるなり監獄にぶち込んでおくなり、裏切らせないように対策を取れた筈である。

しかしイエスはこの時、実に意外な行動を取り始めた。弟子たちの主であり、師であるイエスが僕となって彼らの足を洗い始めたのである。裏切る意志を固めていたユダの足をもイエスは洗った。ペトロの番になった時である。ペトロはイエスに問わずにはいられなかった。なぜ主であるあなたがわたしの足を洗うのですか、と。誰もが裸足で歩くこの頃の足というのは、人間の体の中で最も汚れた部分であったからである。それを人に洗わせる、というのは最も卑しい、格下の相手にしかさせられないことだった。それをイエスがしようとしたのだから、ペトロが躊躇ったのも無理はない。しかしイエスはこう言葉を返した。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。後々まで裁かれることになるのではないか。ペトロは、この言葉を脅しのように感じたのかもしれない。それで彼は「決して私の足など洗わないで下さい」と断ってしまう。そう答えたペトロの心の奥底にあったのも、分かりやすくもっともらしい安全策を取りたい、自分を守りたい、と思う「あれ」である。イエスが何としても覆そうとしている「この世の価値観」である。イエスは、おそらくとても寂しそうな眼差しをペトロに向けて、こう言ったのである。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。

 

イエスは決してこの時、「なぜ分からないのか」とペトロを威嚇しなかった。怒りをもって、従わなかったら苦しみが訪れるかのように脅すことはなかった。裏切るユダに対しても、イエスは怒りをもって望まず、むしろ「あなたがやりたいと思うことをやりなさい」と彼を認めている。そもそも聖書によれば、神は全ての人間をご自分の似姿として創造された。人間を慈しみ、一人一人の人格を尊重する神である。人間それぞれに長所があり欠点がある。皆が違う個性を持ち、違う価値観を持っている。神はその人間すべてを、それぞれに相応しく輝かせようとしている。先ほど、預言者ホセアの言葉が読まれた。「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。」 旧約の創世記に神に背く邪悪に満ちた町と知られるソドムとゴモラが出て来るが、神はその町にたった十人でも正しい者がいれば滅ぼさない、とアブラハムに約束していた。しかし一人として正しい者がいなかった故にソドムもゴモラも滅び、その周辺にあったアドマとツェボイムも共に滅んだと伝えられている。ホセアの言葉は、本当は神はそうはしたくなかったのだ、かけがえのない命を一人として滅ぼしたくはなかったのだ、というメッセージである。だからこそ神の言葉はこう続く。「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」

 

これは、「自分で自分を守ろうと思い煩う必要はない、自分の命を守るために競い合い、争い合う必要もない、あなたに命を与えた神である私が何があってもあなたを守る」、という神の宣言ではないだろうか。「だからこの私を信じてくれ」、という神の切なる願いではないだろうか。その横で悪魔も囁いている。「自分で自分を守らなければ誰が守ってくれるんだ、先に敵を倒しておかなければ自分がやられるのだぞ」と。ロシアに、ウクライナに、人類全てに悪魔は囁き続けている。この分かれ道に私たちは立たされている。分かりやすく、もっともらしい具体的な安全策は悪魔の言うとおりに完全武装することだろう。神の言葉はいつも、はっきりとは分からない。しかし、そのように信じきれない人間に対して、拒もうとしていたペトロに対して神の切なる願いを今、イエスは改めてこう言い直したのである。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。

 

「神はあなたを赦したい、あなたをこの世の束縛から解き放って真の命へと振り向かせたい、だからこそあなたの罪を、私が十字架の上で流す血潮でもって洗い清めたいのだ」、というこれはイエスの熱い叫びである。あなたを洗わせて欲しいのだ、というイエスの切なる願いである。「この上なき愛」とは、イエスが十字架の死を遂げる時が来たことを悟って弟子たち一人一人に降り注いだ「この上なき愛」とは、まさしくこのことではなかっただろうか。「わたしを踏み台にして、私の血によって、神との生きた交わりをもって欲しい」。神の子であるこの方が最も卑しい身分に身を低くしてまで、汚れた足を洗う仕草を通して、イエスはペトロに、ペトロを代表として弟子たち全てに、そして我々人類全てにこの時、語りかけていた、のみならず二千年後の今もなお、世の教会を通してイエスは同じ言葉を語りかけておられるのではないだろうか。

 

 

私たちも今、分かれ道に立たされている。教会の外では世の価値観がしみわたり、人間を神から引き離そうとする悪魔が幅を利かせている。だからこそ、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と主の日毎に、教会でこのように語りかけて来られる主イエスのこの上なき愛によって振り向かされ続ける者でありたい。