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戸惑わせる神

2022.11.27.アドヴェント第一主日礼拝

イザヤ7:13-15、ルカ1:26-38 「戸惑わせる神」浅原一泰

 

今、中学三年生の二学期最後の授業で放蕩息子のたとえ(ルカ15:11~32)を取り扱っている。 父からもらった財産全てを金に換えて遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして全てを使い果たしてしまった息子が、貧しさと惨めさのどん底にたたき落された時にようやく父を思い起こす。反省し、息子と呼ばれる資格はない、雇い人にして下さいと懇願するつもりで戻って来た息子を父は駆け寄って抱きしめ、最高の祝宴を開くというあの話である。その中で、父に逆らい、もらうものだけもらって遠ざかる息子は、エデンの園で神との約束を守らずに命をわがものとしてそこから離れ去って行ったアダムの姿であり、アダムの末裔である我々人類全ての姿、罪人の姿であり、帰って来た息子を駆け寄って抱きしめる父親が神の姿であると伝えた。離れ去った息子を神は見放してはいなかった。息子がどんなに惨めになろうと父親は動かず、助けなかったとも思えるが、しかし本当は誰よりも息子を思い、息子のために祈り、しかし息子が必ず自分の意志で帰ってきてくれることを最後まで信じて父は動かなかった、とも伝えた。アダムであるこの息子は我々のことでもある。息子を信じているからこそ力づくで振り向かせようとはせず、時に自分の意志に逆らってでも遠くでじっと耐え、息子の帰りを待ち望んでひたすら祈り続ける父親の姿は、罪に流され続ける我々を決して見捨てず諦めず、苦しみを共に背負ってでも我々を信じて待ち続ける神だ、ということになろう。離れ去った我々に対する神の切なる思い、神の祈りが最も強く、しかし最も深い愛と慰めと慈しみをもって人類に届けられ始める時。それが、今日から始まったこのアドヴェントの時であり、神の思いが実現するところにこそ真のクリスマスが実現する。そのように思わされている。

 

アドヴェントを迎えた今朝、先ほどはおとめマリアが神の御子を身ごもることを天使から告げられる、有名な御言葉が与えられた。

「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる』。」

 

ダヴィンチなど、多くの芸術家たちがキャンバスに描いた受胎告知のモデルとなったこの言葉は、この季節には必ず殆どの教会で読まれ続けてきた。この言葉を聞くともうじきクリスマスが来る。だからどこか心が和らぎ、暖まるような気がしてくる。そのように好意的にこの聖書箇所を受け止めるクリスチャンが多いように思う。

 

けれども聖書は、本当は違うことを伝えているのではないだろうか。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。天使ガブリエルからそう告げられたマリアはその時、決して心が和らいだのではない。安らぎに包まれたわけでもない。彼女が喜んでいる様子も見受けられない。むしろそれとは逆である。

「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。

聖書はそう伝えているからである。今朝の説教題を「戸惑わせる神」とした。心暖まるアドヴェントの季節にそぐわない説教題かもしれない。それでも、このマリアの「戸惑い」の中にこそ、実は本当に大切な意味があるのではないか、と思ったからである。「戸惑う」というこの言葉は、ディアタラッソウというギリシャ語が訳されたものであるが、聖書の中でこのディアタラッソウという言葉は、後にも先にもここ一箇所にしか出てこない。聖書では、他の誰に対してもこの言葉が使われることは一切ない。天使から祝福の言葉で呼びかけられ、その後に神の御子をその身に宿すと告げられた一人のおとめにだけ、つまり歴史上、後にも先にも二度とそのような経験を味わう女性はいない、このたった一人のおとめマリアにだけ聖書は、この言葉をあてはめた。そのことからも、この戸惑いがどれほど類稀なるものであるか、そうざらにあることではなく、むしろあってはならないことであり、実に重く深い戸惑いであった、という意味が込められているのではないかと思ったのである。

 

ガブリエルの言葉を聞いて、何故マリアの心は和まなかったのか。何故そのように重く、深い戸惑いを経験しなければならなかったのか。マリアは、今の今まで経験したことがなく、想像だにすることも出来なかった声を聞いたからではなかっただろうか。予想も出来ない、イメージすることも出来ない、まったくもって未知なる世界に今、自分は向き合っている、向き合わされている、そう感じたからではないだろうか。それは人間の思惑によって作り出せるようなものでは決してなかったのである。このマリアの思い、それはアドベントの時期が来れば当たり前のように毎年繰り返される聖書の言葉だけ聞いてその気になっている我々クリスチャンや、街の華やかなデコレーションでクリスマスを感じた気になっているこの世の人間の思いとは天と地ほどにもかけ離れていたのだと思う。未知なる世界とのこの出会いをマリア自身はどう感じたのか。それは何を意味したのか。彼女にとってそれは想像を絶するような未知なるものとの出会いであったからこそ、恐怖に震え慄くほどの戸惑いをマリアにもたらしたのだと。聖書はそう告げているのである。

 

お分かりいただけるだろうか。マリアがこの時、出会うようにと招かれていたもの。恐怖に震え慄くほどの戸惑いをマリアにもたらしたもの。まさしくそれがクリスマスの出来事なのである。この後に出て来る荒れ野の羊飼いたちも、主の天使が彼らに近づき、それと出会ったからこそ「彼らは非常に恐れた」、とルカは伝えている。その羊飼いたちへの天使の第一声は「恐れるな」であった。そうであるからこそ今、震え慄いていたマリアに、考え込んでいたマリアにも、天使は続けてこう語りかけたのである。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエス(ヨシュア、「主は救い」)と名付けなさい」。

 

それから二千年が過ぎた今、アドヴェントを迎えた私達に間もなくやって来るクリスマスは、本当はそれと同じ出来事である筈である。それは、我々にとって想像だに出来ないもの、予想も出来ない、イメージすることなどまったくもって出来ないものである筈である。そのようなものとの出会いへ、まったくもって経験したこともないようなものとの出会い、不可能としか思えなかったことが現実となる出来事との出会いへと、二千年後に生きている我々も今、新たに招かれようとしている。マリアと同じように未知なる世界との出会いへと招かれている。そうではないだろうか。しかしどうであろうか。我々は先に信仰を与えられ、教会へとつながれていながら、マリアがあの時味わったのと同じような戸惑いを今、感じられているだろうか。いないように思う。少なくとも私はそうである。恐怖に震え慄くほどの心の激しい動揺を正直、今、私は感じられてはいない。昔を思い返してみると、今までだって感じて来れなかったように思う。むしろ事実は逆ではなかっただろうか。今年もクリスマスが来た、またあの歌が歌える、キャンドルの光に照らされた礼拝が守れる、そんな簡単にイメージできるクリスマスばかりを求めてしまっていたのではないだろうか。我々クリスチャンがそうであるのなら、世の人々がツリーを飾り、イルミネーションを飾り、部屋を華やかにすればクリスマスを迎えた気になるのも無理はない。しかしそれは、あのマリアが経験させられた出会いとは天と地ほどにかけ離れたアドベントでありクリスマスであり、しかもそれで満足してしまうことになるのではないだろうか。それは聖書が告げるクリスマスではない。この世の人間の手によって作り出されるクリスマスではあっても、神の業なるクリスマスとは違うように思う。そうであるからこそ神は、既に信仰を与えられて何度もクリスマスを経験して来たクリスチャンにも、また初めてクリスマスへと招かれている求道者や子供たちにも、決して諦めることなく神は、マリアと同じことを二千年後の今も味わわせようとしておられる、我々の内の誰もが予想だにすることも出来なかった、未知なる世界との出会いへと招いておられる、そう思うのである。

途中でマリアは思わずこう叫んでいた。「どうしてそんなことがありえましょうか」と。アドベントが待ち望ませるもの。神の業なるクリスマスとは、まさしくあり得ないこととの出会いなのである。想像を絶するものとの出会いなのである。我々を震え慄かせるもの、後にも先にもただ一度しか味わえないような戸惑いを経験させるものとの出会いなのである。しかし天使ガブリエルは言った。それこそが、神の恵みとの出会いなのだと。あなたは神から恵みをいただいたのだと。あなたは身ごもって男の子を産む。その子がイエスであるのだと。

 

マリアは直ぐには信じられなかった。天使の言葉が、正気の沙汰とは思えなかった。しかしその彼女も、いつまでも同じままでいることはなかった。古いままのマリアではあり続けなかった。次々と語りかけられてくる天使の言葉によって、マリアは次第に変えられていくからである。天使は言った。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。マリアは本当にその時から、聖霊という神の力、つまりいと高き方の力に包まれ始める。古いままの自分では到底信じられないことが本当に実現するかもしれない。そう彼女の思いはぐらつき始め、彼女の先入観は音を立てて崩れ始めた。彼女の思いがぐらつき崩れるその時間がどの位、続いたかは分からない。しかし聖書はその結末をはっきり告げている。最後の最後に、マリアはもう元のマリアではなくなる。天使の言葉を受け入れられなかった古いマリアとはまったく違うマリアへ、新しいマリアへと変えられる。マリアは最後にこう言ったからである。「わたしは主の仕え女です。お言葉どおり、この身に成りますように」。

 

我々はまだ、この時のマリアとはまったくもってかけ離れたところにいることを認めなければならない。我々が知っているクリスマス、何度も何度も味わってきたクリスマス、イメージしているクリスマスで喜べるし喜びたい、 二年以上もコロナの為に我慢してきたのだからと、そう思ってしまうからである。戦場と化している場所にいる人や死に直面している人を除いて今、震え慄くほどの恐怖に戸惑いを感じている人はいないだろうし、この中にもいないだろうと思う。でもそれは、アドベントなのにそんな危険の中にいる人をつい可哀そうに、と思ってしまう私達こそが気づいていないだけなのかもしれない。神の業なるクリスマスに我々の目をふさがれているままだから、そう思ってしまうのではないか。だからこそ、古い自分のままでクリスマスを迎えさせないためにも神は私たちを戸惑わせようとしている。味わったことのない未知なる世界との出会いを前に、私たちに恐怖と戦慄を味わわせようとしておられる。アドヴェントクランツの光も目で見えるような光ではない。ヨハネが福音書の初めで伝えているように、それは暗闇の中で輝き続ける光であり、暗闇には理解できない、暗闇が勝つことの出来ない、それは我々にとって未知なる希望の光であることに気づかされたいのである。

 

 

マリアが経験した出会い。それは、死からよみがえられた神の御子との出会いである。死に勝利された命との出会いである。痛み苦しみも、肉体が死によって滅ぶことさえも恵みと受け止めさせるほどの神との出会いである。その命をもたらす為に世にお生まれになる御子にもう出会っている、とは誰も言えない。死を恐れ、苦しみから逃れようとして無難な生き方を選んでしまう人間には、歪んだ御子イエスをイメージすることしか出来ない。どれほどの神の切なる思いがこの御子に籠められているか、本当の意味ではおそらく誰も気づけてはいない。しかしマリアは戸惑った。聖霊によって変えられた。震え慄くほどの戸惑いを経験して初めて、だからこそ神の助けを受けることによって始めて御子を迎えるに相応しい器へと変えられた。それは分厚い聖書の中で、たったの一回しかない出来事だったのである。御子と本当に出会っていないことを我々も謙虚に認めるなら、それが世の人間にとって震え慄かずにはいられないほどの戸惑いをもたらす神の恵みであることを思い巡らすなら、神は我々をも戸惑わせて下さるに違いない。神が我々を作り変えて下さるに違いない。今日から始まったアドベント。そのように神によって作り変えられる時をご一緒に歩んでまいりたい。