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神による平和

2022.10.23.主日礼拝

エレミヤ6:13-15、エフェソ2:14-18

「神による平和」浅原一泰 

 

「身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』という。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、わたしが彼らを罰するとき、彼らはつまずく」と主は言われる。

 

実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

 

 

力をもって敵を押さえつけてこそ平和が訪れる、というのが人間が考える平和の限界だと思う。けれども聖書は、イザヤの言葉であるが平和についてこう告げていると。「狼が小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」(11:6-8)

そんな光景が現実のこの世の中であり得るわけがない。しかしそれが神の国では現実となるのだ、という幻をイザヤは語っていた。それから約700年後、この神の国をもたらすためにイエスは世に来られた。

 

神の国で輝きを放つ光の燭台としてイエスは世に教会を残した。しかし教会の世界に争いがないかと言えば嘘になる。多額の献金を信徒に強要し、その子供まで拘束しようとする旧統一教会の問題が連日取りざたされ、あれは「我々のキリスト教とは違う」ということを明確にすべきだという声が様々なところから聞かれるが、しかしこれを簡単に他山の石として片付けられないところが正直、キリストを主と仰ぐ教会においても繰り返されてこなかっただろうか。確かに強要する程度ややり方は同じではなかったかもしれないが、中世の教会も似たようなことを信徒に働きかけていた。来週31日が宗教改革記念日であるが、その発端となった免罪符がそれである。免罪符は、ヴァチカンの聖ピエトロ大聖堂を改修建築するための資金を賄うために大量に発行されたものだったからである。多額の資金を集めるためにそれをばらまき、神とキリストの名を借りた多くの者たちの思惑が動いていた。それは間違っている、聖書に書かれていないことを信徒に教え強要することは神の御心に反している。それに気づいたマルチン・ルターが1517年の10月31日、ヴィッテンベルクの城壁に95カ条の提題を張り出した。それがあの宗教改革の始まりである。

 

それで教会が正され平和が訪れたか、というと決してそうではなかった。確かにそれまで、教会の歴史において十字軍然り、異端審問や魔女狩り然り、実に多くの血が流されいた。しかし宗教改革も新たなる戦いの始まりであった。その後のヨーロッパでは分裂したカトリックとプロテスタントの間で泥沼の争いが繰り広げられ、実に多くの血が流されたからである。血が流れなければいい、ということでは済まない。「自分たちこそが純潔で正しく、考えの違う者は汚れている、とその相手を排除しようとする排他的な考え方」、奇しくもそれは、「敵さえいなければ」という人間の平和の考え方と重なるが、それこそが争いの発端のように思う。その排他的考え方は、常に我々クリスチャンの心をくすぐり続けている。陰口や言いがかりをつけて、意見の違う者を非難し貶めようとする戦いはいつの時代も、どの教会においても起こってもおかしくはないように思う。

 

教会を蝕んできたこの排他的精神は長い間ユダヤ人に向けられてきた。今のイスラエルが建国される前、母国がなく異国の地で生き続けなければならなかったユダヤ人に対して、ヨーロッパのキリスト教は彼らを排除する姿勢を取り続けた。19世紀末期のドイツにマルガレーテ・ズースマンと言うユダヤ人の女性思想家がいたが、彼女が幼い頃、家ではクリスマスの頃になると必ずツリーが飾られ、御子の誕生の物語が読み聞かされ、救い主が世に生まれたことを喜び祝うことが当たり前であったという。幼かった彼女もイエスの魅力に惹きつけられ始めていたある時、クリスチャンのドイツ人の家政婦からこう言われた。「あなたはキリスト教徒にはなれないのよ」。ユダヤ人はキリストを十字架につけた張本人でありその血の責めを負わなければならない、というのがその理由であった。それは幼かったズースマンが、自分がユダヤ人であることを痛感させられる決定的出来事となる。それ以後彼女は、ユダヤ教とキリスト教が一致する未来を追い求め続ける思想を死守しながら波乱の時代を生き抜いていくのであるが、キリスト教に扉を閉められたユダヤ人たちはゲットーと呼ばれる一角に強制移住させられ、そこではユダヤ人だけで固まるしかないとする考え方が多数派であった。しかしその中に、ユダヤ人ではあっても、「ドイツの精神を受け入れよう」と心を開く視野の広いユダヤ人もいた。「あめにはさかえ、みかみにあれや、つちにはやすき、人にあれやと」。クリスマスに歌われる讃美歌98番の作曲者であるあのメンデルスゾーンもその一人である(彼は7歳の時にプロテスタントの洗礼を受けた)。ズースマンもこのメンデルスゾーンの呼びかけを英断と受け止め賛同する。しかし歴史はあまりにも皮肉である。時代は、あのナチス・ドイツが政権を握ることによって、メンデルスゾーンたちの思いを粉々にする方向へと動いていったからである。それによってドイツの社会はユダヤ人を完全に排除し、収容所にぶち込んで抹殺まで企む路線へと舵を切り、ドイツにいたユダヤ人達は国を捨てなければならない事態に追い詰められていく。その為にヒトラーは、ユダヤ人はキリストを十字架につけた張本人でありその血の責めを負わなければならない、というあの聖書の言葉を利用し、ナチスの力を恐れて当時の教会の多くがこれを容認した。考えの違う者を徹底的に排除してこそ本当の平和がある、と言葉巧みに思い込ませる。それがサタンの囁きであるとすれば、その囁きに教会もクリスチャン一人一人も屈したのである。

 

「身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』という。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、わたしが彼らを罰するとき、彼らはつまずく」と主は言われる。

 

先ほど読まれたエレミヤの言葉は、紀元前6世紀にバビロンが大軍をもってエルサレムに迫っているのにも関わらず、「我々は神の民だ、神がこのエルサレムを守ってくださる。バビロンなど恐れるに足りない」と指導者たちは訴え、民衆も安易にそれを鵜呑みにした状況を指し示していた。その時代の者たちしか当てはまらない、ということではない。むしろ、それに当てはまる最初の人間がアダムとエバである。「利をむさぼるが故に、平和がないのに平和だと思い込む」。まさしくそれは、「食べても死なない」、「食べれば神になれる」との囁きを鵜呑みにして己が利を優先させ、遂には神との関係、妻エバとの関係をも壊したアダムの罪である。それはアダムの子孫である人類全てに当てはまり、繰り返される罪であると聖書は宣言する。宗教改革前後の時代やナチスの頃の教会然り。戦時中のこの国の教会然り。権力に屈し教会も神との関係を壊して来た。

 

しかしながら、だからこそ聖書は、聖書にしか語れない言葉を語りかけてくる。それが先ほど読まれたエフェソ2章のパウロの言葉である。

 

実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

 

平和。聖書によればそれはもともと人間が知っているものではなく、人間が手にしていたものでもなく、むしろ人間がまったく知らないものであった、ということになる。「キリストが私たちの平和だ」、と聖書は宣言するからである。ここでキリストが一つにする「二つのもの」とは、いつの時代であれ一方は自分、もう一方は敵のことである。この手紙が書かれた時代においてのそれはユダヤ人と異邦人であった。エレミヤの時代であればイスラエルの民とバビロン、ズースマンの時代であればユダヤ人とドイツ人、あのマーティン・ルーサー・キング牧師の時代であればそれは黒人と白人であった。今のウクライナではウクライナ人とロシア人となるだろう。

 

ユダヤ人と異邦人であれ、ユダヤ人とドイツ人であれ、黒人と白人であれ、いずれにせよキリストは十字架を通して二つのものを一つにし、敵意を滅ぼされた、と聖書は言う。ではその十字架で何が起こっていたのか。キリストは人となった神ご自身である。であるならば、キリストは一切の罪を犯すことのない唯一の人間であった。あのアダムの子孫ではない、罪を犯すことなく神から祝福されて然るべき命の歩みを全うしたたった一人の人間であった。しかしながら、十字架において神は、このキリストに敵対者の如くに立ち向かった。それ故にその苦しみは想像を絶するものであり、だからこそキリストは叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか、と。

 

さて、そこで起こっていたのは何であったのか。それは、神は後にも先にもないほどに、十字架上のキリストにおいて、徹底的に罪を滅ぼしつくされた、ということではないだろうか。罪とはまさに、神に対する敵意である。この罪こそが人間を蝕み、神との関係や隣人との関係を壊し、戦争へと駆り立てる。その罪の最終目的地は死である。また「木にかけられた死体は神に呪われている」と旧約レビ記にあるが、神に対する敵意のかけらさえないキリストに木の十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばせ、死へと追いやるほど、神はこのキリストに人間すべてを蝕む罪を負わせ、呪いを差し向けた。神はそこまでキリストを徹底的に見捨てられた。しかし、罪なきキリストを見捨てることによって神は同時に、誰に対してもキリストを見捨てたようには決して見捨てない断固たる決意を示した。それが十字架の上で起こったのである。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とキリストに叫ばせた神は、叫ばずにはいられない罪人一人一人に向かって語り掛けられる。「私は決してあなたを見捨てない。インマヌエル、私はあなたと共にいるのだ」と。それは、アダムが壊した神との関係の破れを縫い直して余りあるものである。神による平和である。それがあってこそ隣人との平和へと導かれる。ユダヤ人であろうがドイツ人であろうが、黒人であろうが白人であろうが、ウクライナ人であろうがロシア人であろうが関係ない。敵味方を超えてそのことを信じて受け入れ神と共に生きる命を、新しい人間を、神に対する罪という敵意に蝕まれている人類の只中から生まれさせる。「エロイ、エロイ」と叫んでも必ずや「私はここにいる」と答えて下さる方がいつも、どんな時でも共におられ、その方と共に生きる新しい命の歩みを備えて下さる。憎しみや敵意を拭い去ってその産声を挙げさせる。それこそが十字架の上で起こっていた神の業だったのである。

 

 

キリストにとっては、敵意を滅ぼすことによって一つとなる二つのものとは何か。それは命と死ではないだろうか。神が一人一人に与えた命は、この世ではそれを蝕む罪によって死で終わるものへと貶められている。命へと導く筈の神の律法が、人を罪に定める規則と戒律づくめのものとなってしまっている。敵味方を超え憎しみを超えて共に手を取り神をほめたたえることこそが真の平和であるのに、戦争がないことや死なずに済むことが平和であるかのように、平和がないのに平和、平和と思い込まされている。だからこそ神はキリストを死からよみがえらせることで罪と死を打ち滅ぼし、「狼と小羊が共に宿り、幼子と毒蛇が戯れる」という神の国を、敵味方なく互いに神を称える真の平和の光を灯して下さっている。その完成は遥か遠い先かもしれない。しかしキリストが共におられるなら、そこに神の国は始まっており、完成を信じて待ち望む者へと変えられる。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」とイザヤが告げたキリストが来られるアドヴェントの光を遠くに見据えつつ、我々も神の国を信じて待ち望む群れへと変えられたいと願う。