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ヨセフの赦し

創世記4518、フィリピ21216「ヨセフの赦し」

2022724日(左近深恵子)

 ヤコブの12人の息子たちの内、下の二人だけはヤコブの最愛の妻ラケルとの間に生まれた子どもたちでした。12番目のベニヤミンがまだ幼かった頃、上の10人は、父から特別に大切にされている11番目のヨセフを憎んでいました。ヨセフが17歳の時、兄たちの麦の束が自分の麦の束にひれ伏す夢や、両親を表す日と月と、そして兄たちの11の星が自分にひれ伏す夢を見たと語ったことによって、一層憎むようになりました。

 

ある日ヨセフは父に命じられて兄たちのところへと遣わされます。兄たちはやって来たヨセフを「夢見るお方」と呼び、ヨセフを殺して、ヨセフの夢がどうなるか見てやろうと言います。しかし密かにヨセフを助け出そうとする長男ルベンが、直接自分たちの手で血を流さず、穴に投げ入れることを提案し、彼らはヨセフの特別な晴れ着を剥ぎ取り、荒れ野の空の穴に投げ入れます。また四男ユダが殺すよりも奴隷として売ろうと提案し、同意しますが、彼らが気づかぬうちにヨセフは商人たちによって穴から引き上げられ、エジプトに奴隷として売られてしまいました。兄たちはヨセフの晴れ着を雄ヤギの血に浸して父に届けさせ、それを見たヤコブは最愛の息子ヨセフは野獣に殺されてしまったのだと嘆き悲しんだのでした。

 

 エジプトに連れて行かれたヨセフは、ファラオの侍従長であった人物に買われます。ヨセフの働きが何事もうまく計らわれることを喜んだ侍従長は、やがて家の全ての財産の管理をヨセフに任せるまでになります。荒れ野の死を待つだけの穴の底から、侍従長の家の最高の職へと引き上げられたのです。しかし侍従長の妻がヨセフを自分の欲望と権力によって支配しようとし、従わないヨセフを偽証によって訴え、ヨセフは冤罪で投獄されてしまいます。再び牢獄と言う穴に入れられてしまったのです。

 

監獄でヨセフは看守長に高く評価されるようになり、監獄に居る囚人を皆、ヨセフの手に委ねました。獄の中でヨセフは再び引き立てられます。囚人たちが見た夢の意味を問われ、夢に示されている神さまのご意志を説き明かし、その通りのことが起きます。しかし説き明かし通りに牢から出られたら王に取り計らうと約束したファラオの給仕役の長は、約束をすっかり忘れ、ヨセフは更に何年間も監獄という穴の中に留め置かれます。やがてファラオが自分の夢を解くことのできる者を探していることから、給仕役の長がヨセフのことを思い出し、ヨセフは呼び出されてファラオの夢を説き明かします。神さまがファラオに、これからなさろうとしていることを告げておられるのだと、エジプトにこれから7年間大豊作が訪れ、その後7年間は飢饉が続くと告げました。ヨセフは、飢饉に備えてなすべきこともファラオに提案します。ファラオとその家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心し、ファラオは自分に次ぐ地位に任命し、ファラオが持つ権威の全てをヨセフに委ね、やがて来る飢饉に備える働きも任せます。こうしてヨセフは牢獄の穴から、エジプト全国民の上に立つ地位にまで引き上げられたのです。

 

侍従長の家でも監獄でもファラオにも、ヨセフはその働きが喜ばれ、全幅の信頼を寄せられ、高く引き立てられます。聖書は、主がヨセフと共におられることが、侍従長にも看守長にもファラオにも明らかであったからとその都度述べます。ファラオは「このように神の霊が宿っている人は他にあるだろうか」とまで言います。悲惨な目に遭い、過酷な状況に置かれていたヨセフの手元に、17歳の時に見た夢がこの先実現されると確信できる根拠は何もありません。ただ神さまが共におられることによってヨセフは支えられ、今日という一日を意味あるものとされ、誠実に生きる力を与えられたのでしょう。人の目には、ヨセフの出来事は一夜にして囚人から大国のトップにまで上り詰めた成功物語に見えるでしょう。しかしヨセフ自身は、時が良くても悪くても主が与えてくださった夢を同じように見続ける「夢見る人」であったのでしょう。自分の手元に根拠が無くても、神さまが目指しておられる未来は神さまからもたらされることを知っていた、だから神さまがもたらしてくださる未来に望みを抱いて、自分にできることを為し、受け止めた主のご意志を隣人に伝えたのでしょう。その生き方が飢饉に備えて穀物を備蓄し、飢饉が到来すると、その穀物を必要とする人々に売り、多くの人の命と生活を守ったヨセフの働きへとつながります。飢饉はエジプトだけでなく、カナンの地も含め一帯を襲いました。エジプトの人だけでなく、他の国々からも穀物を求めて人々がエジプトにやって来ました。その中にヨセフの兄たちもいたのです。

 

兄たちは目の前にいるエジプトの宰相が、自分たちが荒れ野で売り飛ばそうとして行方が分からなくなったヨセフだとは全く気づきませんが、ヨセフの方は直ぐに分かります。そして、自分たちや家族の食糧のためにひれ伏す兄たちを見て、17歳の時の夢を思い出すのでした。この時は自分が誰だか明かさずに穀物を分け与え、末の弟ベニヤミンを連れて来いと言い渡して、兄一人を残して帰らせます。やがてヤコブの家族はエジプトから持ち帰った食糧を食べ尽くし、食糧を調達しにヤコブは息子たちを再びエジプトに行かせます。一度目の時には何かその身に起こってはと行かせなかったベニヤミンも、神さまの祝福を受け継ぐものとされているこの家族の未来のために今回は行かせないわけにはいかないとヤコブは決断します。

 

再びやって来た兄たちをヨセフは屋敷に招き、もてなします。兄たちは再びヨセフの前にひれ伏します。最初は食糧のために、そしてヨセフの企みによって奴隷にされてしまいそうな末の弟ベニヤミンのために。兄弟を代表して語るユダの言葉からヨセフは、父親が健在であることを知り、安堵します。そして20年ほど前に自分から家族も豊かな暮らしも故郷も奪った一人であるユダが、ベニヤミンを助けるために自分が身代わりになると懇願するのを目の当たりにします。ユダの、ベニヤミンや年老いた父親に対する愛情を知り、こらえきれなくなったヨセフは、人払いをして、「私はヨセフです」と自分の身を明かします。一度目に彼らが来たときも密かに涙を流したヨセフですが、この時の泣き声は、部屋から退出した僕たちにもそのこえが聞こえるほどでした。

 

兄弟たちはヨセフの出現に初めは驚愕します。本人であると認識すると、驚きは恐ろしさへと変わります。ヨセフの復讐が今にも始まるのではないかと、緊張が彼らの間に広がって行ったことでしょう。ヨセフの本心が読めない彼らには、ヨセフの泣く姿にすら恐怖を覚えたことでしょう。

 

けれどヨセフは言います、「しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」と。あなたがたが十分に悔い改めたのを見たから赦した、と言っているのではありません。兄たちは、かつてヨセフにしたことを心から悔いています。相変わらずベニヤミンを特別に可愛がっている父のことも、心から案じています。けれど兄たちや、その兄たちに対するヨセフの気持ちの変化が、ヨセフが兄たちにこう述べる理由ではないのです。

 

ヨセフの気持ち変わりました。しかし完全に変わったのでしょうか。兄たちのしたことによって苦しんできたヨセフです。エジプトで結婚し、生まれた我が子に「忘れさせる」という意味の「マナセ」という名をつけています。兄たちが自分にしたこと、突然父親や故郷を奪われたこと、その後味わわなければならなかった苦しみは、忘れたくても忘れることができなかった、しかし子の誕生によって神さまが忘れさせてくださったのです。次男が生まれると、「増やす」という意味の「エフライム」という名前を付けています。奴隷として強制的に連れてこられ、冤罪で投獄され、何年も牢の中で忘れられてきたこの地を「悩みの地」「苦難の地」と呼び、その地にあっても神さまは更に子を与えてくださったと述べています。裏を返せば、一人目の誕生後も苦しみ、悲しみがヨセフの中からすべて消えてしまうことは無かったのであり、二人目の誕生によってもこの地を“喜びの地”と呼ぶことはできないということではないでしょうか。悩み苦しみの地で常に共におられ、悲しみと苦難に勝る恵みを与えてくださる神さまへの感謝を、ヨセフは子の名前を通して言い表しているのです。

 

兄たちから父が生きていることを聞くことができ、成長したベニヤミンにも会え、兄たちの変化を見て取ったからといって、ヨセフの中の憎しみが全て消え去ったわけではないでしょう。この日ヨセフが兄たちに、「今は悔やんだり責め合ったりする必要はない」と言うことができたのは、兄たちや自分の気持ちの変化によってではなく、神さまのご意志を受け止めたからです。家族の間の偏った愛情や憎悪が絡み合って、ヨセフはエジプトに売り渡されました。しかしそれらも超える神さまのみ業が、ヨセフを兄たちよりも先にこの所にお遣わしになったのだとヨセフ自身が知ったから、そして兄たちにも知って欲しかったからでありましょう。ヨセフの気持ちの中からわだかまりが完全に消えていなくても、兄たちが犯した罪の値を十分に払っていなくても、不完全で不十分な一人一人の思いや行動にもかかわらず、神さまはこの国の民を救い、ヤコブの家族と民を救うために、み業を進めて来られた、だから、今は共に神さまのご意志を受け止めましょうと、あなたがたの罪深さによって苦しんできたけれど、人の罪も神さまのみ業を妨げることはできないと、罪が私たちを支配しているのではなく、私をここに遣わした神さまが全てを支配しておられるのだと、伝えたかったのでしょう。

 

感動的な再会の場面でありますが、この日、ヨセフと兄たちの間に完全な和解が為されたわけではなかったことが、やがて父親ヤコブが死んだ時に明らかになります。父親が居なくなった今、ヨセフが自分たちに仕返しをするのではと兄たちは思い、再びヨセフの前に進み出て、ひれ伏して、赦しを乞います。エジプトのヨセフの屋敷で神さまがヨセフを遣わしたのだと告げられた後も、ヨセフに赦されていることに信頼しきれずにいたのです。この時もヨセフは涙を流します。そして兄たちに言います「恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか」(5019)。あなたがたが本当にそのみ前にひれ伏し、赦しを乞わなければならないのは神さまであり、赦すのも裁くのも神さまであって、自分は神に代わることはできないのですと。そして再びこう言います、「あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。」(502021)。ヨセフが兄たちを赦せるのは、その赦しを行動で表せるのは、神さまのご意志に従うからであり、兄たちがヨセフの赦しに信頼できるのも、ヨセフの行為を受け入れるのも、悔い改めへと押し出されるのも、神さまのみ前にあってこそ為せることであります。ヨセフの屋敷でヨセフは「悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」と言いました。「悔やむ」と訳された言葉は「かき乱される」ことを意味し「責める」と訳された言葉は「怒る」ことを意味します。ヨセフに対して彼らがしたことを思い出しては心かき乱され、そのことで互いに怒りをぶつけあう、そのようなことをどんなに繰り返しても、神さまのみ前での悔い改めにはつながっていきません。そのように苦しみいがみ合う兄たちの姿を見ても、ヨセフの苦悩や悲しみが全て消えるわけではありません。救いを生み出すことのできるお方のみ前に共に進み出ることで、悔い改めへと押し出され、神さまのご意志を受け止めることができます。振り返って、神さまがどんなに大きな救いのみ業の中に、自分たちが参与する道を与えてこられたのか気づかされ、驚きと喜びに満たされるのです。

 

ヨセフは今日の屋敷の場面で三度、神が私をお遣わしになったと言います。何度も繰り返さずにはいられないのです。決して模範的な家族ではない、対立と欺きにからめとられ、更なる対立と欺きしか生み出せないこの家族において、神さまが、救いのみ業を導いてこられたことを、兄たちと分かち合いたいという願いが繰り返しから伝わってくるようです。

 

神さまは「命を救うために」このことを為さったとヨセフは言いました。その命とは 第一には、飢饉の中で生き延びることのできる肉体の命を指すでしょう。しかしまたヨセフは「この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせ」るためとも述べています。「残りの者」という表現は、聖書では神さまの怒りや裁きと関わります。ここでは、罪にもかかわらず、その罪に対する神さまの厳しい裁きにもかかわらず、神さまの憐れみの故に、生かされる人々を指しているのでしょう。神さまが家族に先立ってヨセフをこの国にお遣わしになったのは、罪を超えて与えられる祝福された命に、イスラエルの民が生きていくためであるのです。

 

ヨセフはこのことを「大いなる救いに至らせるため」だと続けます。ここで「救い」と訳されている言葉は、「逃げる」「脱出する」といった意味の言葉です。飢饉の地から食料が備蓄されている地への脱出であり、更には自分で自分の罪深さを超えることができないところからの脱出であります。そこから救い出すために、神さまは憎しみ合う対立も、互いの間の亀裂も乗っ取るようにして、また互いを思いながら通い合わない思いや誠実な生き方の積み重ねの一つ一つを用いて、罪人たちを命に至らせるために、神さまは救いのみ業を進めてこられました。神さまの救いによってもたらされる命は、全ての人にいつかは訪れる肉体の死に呑み込まれない、神さまの祝福に満ちた命なのです。

 

歪んだ愛憎、互いの間に横たわる溝、思いもよらない衣食住を脅かす災害、様々な危機が私たちを襲い、怒りや憎しみ、わだかまり、悲しみは私たちの内なる目を塞ぎます。その中にあって、神さまのご意志を見出し、神さまに対して、また隣人に対して、誠実に生きる道を見出せるのは、神さまのみ前に進み出て、自分の全てを神さまのみ前に注ぎ出し、救いのみ業に生きることを求めることによります。

 

 

フィリピの信徒への手紙で、パウロはこのように記しています、「あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」(フィリピ213)。私たちは自分に本来与えられている自由と力を発揮して、自分の願いと行動において、神さまの救いのみ業に参与することができると述べます。私たちの内に神さまが働きかけてくださり、み心の内に歩むことのできる道を与えてくださっているのだと。そのためにイエス・キリストは自分を無にして僕の身分になり、人間と同じものになられた、人としてお生まれになり、十字架の死によって私たちの罪を代わりに、完全に担い、神さまの祝福に満ちた道を備えてくださいました。主イエスこそが、私たちが神さまの御心につながり続け、神さまのもとに帰り着くことのできる道であるのです。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中にあって、神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」と、「こうして私は、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」とパウロは言います。罪に引きずられてしまう私たちであっても、主が働きかけてくださるから、キリストの光を反射して輝くことができます。大いなる救いのみ業が私たちを通して行われていくことに信頼する歩みは、ただ神さまの救いを表すみ言葉の支配に従う中で起こるのです。