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売り渡されたヨセフ

創世記372336、詩編16、ヨハネ51419「売り渡されたヨセフ」

2022717日(左近深恵子)

 

創世記から、一つの家族の中で起きた出来事を聞きました。この家族の父親はヤコブと言い、神さまからイスラエルという名を新たに与えられた出来事を先週聞きました。神さまが共におられ、闘ってくださることを示す名でありました。そしてこの名はヤコブ以降、ヤコブの子孫を表す名となり、神の民全体を表す名となります。今日の箇所の出来事は、イスラエルという名前を与えられた父と、その名前を受け継ぎ、やがてイスラエル12部族の基となっていく息子たちの間で起こりました。神の民として形作られていく家族が、その途上でどのような歴史をたどったのか、創世記は伝えています。

 

ヤコブとその息子たちのことを語る冒頭、この家族がカナン地方に住んでいたことが先ず述べられます。しかしヤコブはこれまでずっとこの地で暮らしてきたのではありません。神さまがかつてヤコブの祖父アブラハムに、アブラハムとその子孫に与えると約束されたこの地で生まれながら、20年もの間この地を離れていました。それはヤコブが、父イサクから祝福をだまし取ったことに起因しました。

 

その頃高齢になっていたヤコブの父イサクは、長男エサウに、アブラハムから受け継いできた神さまの祝福を渡そうと考えていました。しかしイサクの計画を耳にした母リベカは、その祝福をヤコブに受けさせようとヤコブを説得します。ヤコブは母の言葉に従い、エサウが狩りに行っている間にエサウの晴れ着を纏い、家畜の中から取った子ヤギの料理をエサウが狩りで得た獲物の振りをして携え、視力が衰えた父の所に行き、自分はエサウであると偽って祝福を受けました。狩りから戻ったエサウは、自分が受けるはずだった祝福を奪われたと知り、怒ります。ヤコブはエサウの殺意から逃れるために、家を離れ、母の故郷へと向かいました。母の故郷で、母の兄ラバンの下で働きながら20年間暮らし、ラバンの二人の娘と結婚をし、多くの子どもに恵まれました。やがて神さまから「あなたの故郷に帰りなさい。私はあなたと共にいる」と告げられたヤコブは、家族を連れてカナンに戻る途上で、イスラエルという名前を与えられたのでした。

 

エサウは今も自分に殺意を抱いているに違いないと恐れていたヤコブですが、ヤコブ家族の帰郷を喜び、ヤコブを赦すエサウによって、再びカナンの地で暮らし始めることができたのです。それが冒頭の「カナン地方に住んでいた」という言葉の背後にあるこの家族の歴史でありました。そして再びヤコブの家族がカナン地方を離れなければならない危機がやがて訪れる、その危機においてこの家族のみならず多くの民を救う働きを為すのが、ヤコブの11番目の息子、ヨセフでした。

 

ヤコブには12人の息子がいましたが、11番目のヨセフの孤立状態から、この家族の歴史は語られます。まだ若いと言う理由でヨセフは兄たちと行動を共にしていません。兄たちとの間に対立があり、兄たちはヨセフと穏やかに話すことができないほどヨセフを憎んでいました。その理由は、父ヤコブがヨセフにだけ特別な晴れ着を作ってやったほど、ヨセフをどの子よりもかわいがったからとあります。この偏った愛情の理由を創世記は、ヤコブが年を取ってからの子であったからとだけ述べています。母の故郷の地で生まれた息子たちの中で、ヨセフの誕生は最後でありました。ヤコブが本当に愛していた、その人との結婚を初めから望んでいながら、なかなか結婚を許されなかった、亡き妻ラケルとの間にようやく与えられた子でありました。長い間待ち続けてきた、その年月の長さが「年を取ってからの子」という表現の背景にあるのかもしれません。

 

兄たちのヨセフに対する憎しみは、ヨセフが自分の見た夢を兄たちに語ったことで一層深まります。それは畑で自分の束に兄たちの束がひれ伏すという夢、そして空で太陽と月と11の星が自分にひれ伏すという夢でした。聖書において神さまが人に夢で語り掛け、共にいてくださることを示される、ということがあります。神さまのご意志が夢を通して示されることもあります。後にヨセフはエジプトで、他の人々が見た夢の意味を説き明かします。ヨセフは、夢で神さまが示しておられることを受け留め、解釈する特別な力がある人として語られています。しかし今日の箇所の、まだ若き日のヨセフは、「聞いてください。私はこんな夢を見ました」と言っては、相手がどう思おうとお構いなしに見た夢を聞かせるだけです。神さまのご意志を受け留め、説き明かすという役割は担えていません。聞かされた兄たちや父が、自分たちで夢を解釈し、「わたしたちがお前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」と、怒ります。ヨセフが夢を語るこの出来事の中で、兄たちの憎しみが3回述べられますが、語調は次第に強いものになって行き、11節になると「憎む」から「妬む」と言う言葉に代わります。それは「憎む」よりも激しい感情を表し、暴力的な行動へと駆り立てる可能性を大いに含む言葉です。夢を聞かされた兄たちが、ヨセフへの報復を現実に考え出すほど強くヨセフを憎むようになっていったことを伺わせます。けれどヤコブはこのことを心に留めたと一言付け加えて、この夢の出来事を締めくくり、今日の出来事が始まる12節へと移ります。

 

 兄たちはこの時、家から70キロほど離れたシケムの地にいました。新鮮な牧草を求めて移動しつつ羊の世話をしていたのです。この日も兄たちと共に行動するのではなく家にいたヨセフを父は、兄たちや家畜が元気でいるか確認してくるようにと使いに出しました。

 

この場面でヤコブは、神さまから与えられた「イスラエル」という名で呼ばれています。ヨセフを兄たちの所に遣いに出したヤコブの決断には、父親としての判断を越えるものがあったことが示されているのかもしれません。ヨセフが語った夢を心に留めていたヤコブの内側に、この家族を全ての民の祝福の基とするとの神さまの約束が、ヨセフを通して更に実現されるとの思いがあったのかもしれません。しかし、ヨセフを憎んでいる上の息子たちが仕事をしている所に、当のヨセフを、それも晴れ着のまま行かせてしまったヤコブの判断には、上の息子たちの憎悪を軽く見ていた認識の甘さもあったでしょう。

 

 事態はヤコブの楽観的な予測を大きく裏切るものとなってゆきます。ヨセフはシケムに来ますが、兄たちも家畜の群れも姿が見えません。見知らぬ人から、兄たち一行が更に家から遠く離れた地に羊たちを連れて行ったことを教えてもらい、そこから更に20キロほど離れたドタンという地に向かいます。これまでは家の側で、父親の特別な愛情の翼の下、守られてきたヨセフですが、今は父親の力が及ばない遠い地で、見ず知らずの人から情報を得なければならない状況で、必死に兄たちを探す様子が伝わってきます。

 

ヨセフが来ることなど知らずに羊の世話をしていた兄たちが、まだ遥か遠くにいる人物がヨセフであるとなぜ気づけたのか、それはヨセフが纏っている晴れ着でした。晴れ着のままで行かせたヤコブは配慮に欠けていますが、働いている兄たちの所にその服のままで行くことを何とも思っていないヨセフも、思慮が足りないと言えるでしょう。この家族の間に思いが通わない深い溝が横たわっています。

 

 兄たちは、ヨセフだと気付いた直後に殺す決断を下し、どう殺そうかと相談を始めます。常に内側でくすぶっていた憎しみに、ヨセフの晴れ着姿が油を注いだのです。父の目の届かぬ場所に居ることも、兄たちから自制心を失わせたでしょう。ヨセフを殺して穴の中に投げ入れ、野獣に食われたことにしようと相談します。ヨセフを彼らの視界から消し去ろうとしたのです。

 

 兄たちが消し去ろうとしたのはヨセフの命と存在だけではありません。彼らは遠くに見えるヨセフを「例の夢見るお方」と皮肉まじりに呼び、ヨセフを殺して「あれの夢がどうなるか、見てやろう」と言っています。彼等が消し去ろうとしたのは、夢見るお方でした。ヨセフの存在ごとヨセフが抱いている夢を消し去ろうとしました。兄たちにとってヨセフの夢は、自分たちが正しいと思って来た家族の秩序、在り方を崩し、自分たちが得るはずのものを脅かしかねないものに見えたでしょう。なぜ父親が、そのような夢見るヨセフに期待をするのかも理解できなかったでしょう。兄たちは、父親の内にあるヨセフの夢も消し去りたかったのかもしれません。そして彼らがヨセフの夢を消し去ろうとすることは、彼らが気づいていなくても、ヨセフに夢をもたらしてくださった神さまのご意志を聞く価値の無いもの、無力なものと退けることでありました。この世を今動かしている在り方の延長線上に無い、新しい未来を人に望み見させる夢などあり得ないとする兄たちの姿は、世が生み出すことのできない新しい秩序をもたらそうとしておられる神さまのみ心を退けるものでありました。ヨセフ物語にはこの後も、ヨセフの夢を消そうとする者達が現れて来ます。今日の箇所は最後に、ヨセフは売られた先のエジプトで、ファラオの宮廷の役人で、侍従長であったポティファルの奴隷となったことが述べられて終わりますが、そのポティファルオの妻も、ヨセフごと夢を消し去ろうとします。その後カナンやエジプトを含め周辺の世界一帯を襲うことになる飢饉も、夢が描く未来を消し去ろうとします。夢に向かって進もうとするヨセフの前にそのように立ちはだかる力の最初のものは兄たちであったことを、創世記は伝えています。

 

 世を動かしている秩序を絶対のものとして受け入れ、世の在り方をこのまま保とうとする考え方は、神様が示してくださる新しい在り方としばしば対立します。神さまの夢の担い手が、人々の目に、その夢を抱くに相応しい者ではないと映ることも少なくありません。神さまがヨセフに夢を与えなければ、この家族はもっと平和に暮らせたのに、神さまがもっと夢の担い手として相応しい人物を選び、もっと相応しいタイミングで特別な働きを委ねておられたら、事はもっとスムーズに争いも無く運んだかもしれないのにと、残念な思いが沸き起こるかもしれません。同時に、私たちが日頃残念に感じている、願うように進まない信仰の歩みや業のことも思うかもしれません。神さまのみ心に適う生き方をしたいと、神さまが示される未来をこそ、自分の希望としたいと願いながら、自分の内側で沸き起こり、外側から押し寄せる、神さまから与えられた夢を消し去ろうとする疑問や力と格闘してきたのは、ヨセフだけではありません。そして、人の目に相応しさが足りない者たちを、神さまは希望の担い手として立て、人の目には小さく見えようとも、それぞれに特別な働きを与えて来られたことにも、それらの働きが互いにつながって私たちの今があることにも、また思いが至るのです。

 

 ヨセフの姿に気づくとすぐさま、ヨセフの命を奪ってでもヨセフの夢を消し去ろうとする激しい動きが兄たちの間に起こります。一方で、命を奪うことへの恐れや、ヨセフを溺愛する父親への憐みもまた、兄弟の中に現れます。長男ルベンは、「穴に放り込むだけにして、直接手を下さないようにしよう」と提案します。後でこっそりとヨセフを助けに来るつもりでいたのです。ルベンの提案を受け入れた彼等は、やって来たヨセフを捕えて、いまいましい晴れ着をはぎ取り、雨が降った時には貯水池となる空の穴に放り込みます。その後ルベンはその場を暫し離れていたのでしょう。残りの者たちは腰を降ろして、おそらくヨセフが父親から託されてきたのであろうご馳走を食べ始めるのでした。するとパレスティナの産物をエジプトに売りに行く隊商を見かけた四男のユダが、肉親であるヨセフを殺すより、奴隷として売って利益を得ようと提案します。父親の羊を飼う彼らにとって、若いヨセフを売って得られる銀20枚と言うお金は、かなりの臨時収入に思えたでしょう。「あれだって、肉親の弟だから」というユダの言葉に対する反論は無く、ユダの提案通りに他の兄弟たちは腰を上げます。こうして二人の兄弟の言葉によって、ヨセフを殺すことから、売り飛ばすことへと計画が変更されますが、既にその時にはヨセフは他の商人たちに引き上げられ、エジプトへと連れて行かれていました。長男ルベンは自分の衣を引き裂いて嘆きますが、今さらヨセフを助けることはできません。ヨセフを売って銀20枚を手に入れるつもりだった兄弟たちも、何も手に入れられません。そして彼らはヨセフの晴れ着に雄山羊の血をしみこませて父のもとに送ります。彼らの思惑通り、ヤコブはヨセフが野獣に殺されたのだと思い込みます。自分たちで嘘を並べて父を欺くのではなく、直接血だらけの晴れ着を渡して、衝撃を受ける父親を目の当たりにすることもなく、送り届けた晴れ着によって父親自身に結論を出させる息子たちの行動は、神さまの夢を消し去ろうと踏み出してしまった、その一歩を繕うために、更に罪を重ねる者の姿です。彼らもまた、神さまの祝福を担う家族としての相応しさからはかけ離れた者たちでありました。

 

ヤコブは嘆き悲しみます。かつて兄エサウの祝福を奪い取るために、兄の晴れ着と山羊の料理をもって、父イサクを騙したヤコブですが、自分がヨセフの晴れ着と山羊の血で、息子たちに欺かれています。ここまでは息子たちの思惑通りでしたが、父ヤコブのヨセフを失った悲しみは、彼らの思いを越えていました。衣を引き裂き、粗布をまとい、幾日も嘆き悲しむ、という喪に服する行為が、肉親に対して通常なされる期間を越えてなお続けられます。慰められることも拒むヤコブは、死者の場所と考えられていたよみに自分が降って、そこでヨセフに会える日まで自分は悲しむのだと言って泣き続けます。死だけがヤコブに残された最後の希望になっていました。

 

 ヤコブの悲しみは、最愛の子を失った悲しみであります。そしてまた、神さまの約束がヨセフの命と共に潰えてしまった悲しみであります。愛するラケルとの間に子を願い続け、ようやく与えられたヨセフは、ヤコブにとって神さまの約束が自分の家族においてなおも生き続けている証しでありました。そのヨセフが死に奪われてしまいました。自分の愛する息子も、神さまの約束も、死に呑み込まれてしまった絶望に、慰められることを拒みました。この悲惨な出来事を引き起こしたのは息子たちの殺意と欺きであり、その背後にある、家族が抱えてきた溝であり、一人一人の罪でありました。創世記は、止むことの無いヤコブの悲しみを述べ、そして奴隷としてではありますが、ヨセフがエジプトで生き延びていることを語って、この出来事を締めくくるのです。

 

神さまが与えてくださる夢よりも、その夢を消し去る人の罪の方が力を持っているではないかと、ヤコブと共に慰めを拒みたくなる、嘆きの淵に沈んでいきたくなる、悲惨な現実が私たちの世にも私たちの周りにもあります。望みを抱き続けられる確かな根拠が、人の中にも、世の流れの中にも、見つけられません。ヤコブは悲しみに覆われていました。エジプトに売り飛ばされたヨセフ自身も、自分を通して夢が実現されることを、この時どれだけ確信できていたでしょうか。この時、夢を諦めていなかったのは、神さまだけであったのではないでしょうか。先を読むと分かりますように、ヨセフはエジプトで生き続け、やがて多くの人に祝福をもたらす存在となります。神様がアブラハム、イサク、ヤコブに約束された祝福は、ヨセフにおいて実現されます。しかし37章の段階で、人間にはその展開は見えないのです。

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスが、神さまのご支配を語るご自分の存在が敵視され、ご自分の存在ごと、その言葉も業も消し去ろうとする大きな力が働いているただ中で、盲人を癒されたことを伝えています。主はその理由を、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」と言われました。人々がご自分の言葉によく耳を傾けてくれるからではありません。弟子たちがご自分のお働きや、ご自分を通して為されている神さまの救いのみ業をよく理解してくれるからではありません。主イエスは、世の流れに心騒がせ、流され、恐れ戸惑う人間の現実をよくご存知であります。主が、父なる神が人々に与えてくださっている夢を実現するために働かれるその根拠は、人々の中にではなく、世の流れの中にでもなく、今もおられ、今も働いておられる神さまにあります。私たちを罪から救い、神さまの夢を私たちの希望として生きるために、主は人々の欺きや背きを受けて十字架にお架かりになり、血を流し、兵士たちがご自分からはぎ取った服を分け合うままにさせておかれました。よみに降られ、復活されたこの主が、聖霊において今も私どもと共におられるから、私どもも神さまの夢に希望を見、私たちの言葉や業が神さまのお働きに続くものであることに、希望を持ち続けることができるのです。