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新しい名

「新しい名」創世記1718、コロサイ21115

2022619日(左近深恵子)

 

 一人の人間の人生には限りがあると、多くの人がそうであるようにアブラムも、思いながら日々を暮らしていたのではないかと思います。人生の時間には限りがある。その人の願いが叶えられるまで待ち続ける時間にも、願いを叶えるために費やせる時間にも限りがある。その人の肉体の健やかさや、その人の周りの人々、その人の周りの環境がいつまでも願う在り方で続くわけではないことを、実感してきた人ではないかと思います。

 

 創世記は11章で、アブラムの二人の肉親との死別について触れていました。11章というのは、ノアの息子の一人、セムの系図が記されている章です。ノアから数えて10代目に当たるテラが、アブラムの父親であることも記されています。そしてテラについては、それまでの系図よりも詳しく、その息子たちや妻たち、子どもたちのことが詳しく述べられています。その中で、二人の人物の死についても述べられています。

 

 一人目は、アブラムの弟ハランです。テラにはアブラム、ナホル、ハランという息子がいました。一番下のハランは子どもたちに恵まれましたが、父のテラよりも先に死んだとあります。アブラムは自分よりも年若い弟を失いました。父親を失った子どもたちの悲しみも、息子に先立たれた父テラの悲しみも、すぐ傍で見てきたことでしょう。

 

 その後テラは、アブラム夫婦とハランの息子ロトを伴い、息子たちと暮らしてきた土地、三男ハランを送った土地であるカルデアのウルというところを後にして、カナンの地を目指します。しかし途中まで来たところで、理由は記されていませんがテラはそこに留まります。その土地の名前は三男と同じハランでした。テラはその後、生涯の終わりまでそこで暮らし、ハランの地で死の時を迎えます。アブラムは、カナンを目指しながら途中で断念をし、再び出発することも叶わないまま人生を終えた父親を送りました。

 

 子どもたちや父親を残していったハランにも、道半ばで生涯を終えたテラにも、叶わない願いがありました。アブラムも、弟や父と歩む日々がまだ先に続くと思っていたかもしれません。けれど時間には限りがあり、自分や周りの人の健康や取り巻く環境が変化していくことを止める力もなく、二人を送りました。その後もハランの地で暮らし続けながら、年齢を重ねていたアブラムに、主なる神はある日「私が示す地に行きなさい」と呼び掛けられました。神さまの言葉に従って、慣れ親しんできたもの、深く結びついてきたものを後にし、一族の保護の外へと出て、神さまが示される地を目指して出発するアブラムの拠り所は、ただ神さまの約束です。神さまは、子を望む願いが叶えらずにきたアブラムを大いなる国民にすると、多くの子孫を約束されました。アブラムの名を高めるとも、約束されました。自分の力と才覚によって自分の名を高めようとする人生ではなく、全ての力の上に立つ主なる神さまによって高められる人生を示されました。地上のすべての氏族はアブラムによって祝福されると、アブラムを祝福の基とするとも約束されました。これら祝福に満ちた神さまからの約束を仰いで、アブラムは父の最後を看取ったハランの地、若くして死んだ弟と同じ名前の地を後にし、妻と共に、甥のロトも連れて、旅立ったのでした。

 

 神さまが示されたのは、カナンの地でした。その地に入って行ったアブラムは、祭壇を築いて神さまを礼拝しては、カナンの地でも共にいてくださる主によって望みを新たにされ、また先へと進むことができたことでしょう。神さまの言葉にただ信頼して進むアブラムの姿は、その後の信仰者たちを力づけてきました。

 

 しかし、アブラムの歩みは常に確かなものであったわけではありません。アブラムは幾度も揺らぎます。神さまが示してくださった地であるカナンが飢饉に見舞われると、アブラムは神さまのみ心を問うことも無く約束の地を捨ててエジプトへと逃げます。逃げた先のエジプトでは、アブラムは自分の身に危険が及ばないように、妻サライが自分の妻であることを隠して、ファラオの宮廷に召し入れられるままにさせます。神さまの子孫の約束を共に担うはずの妻をファラオに差し出したのです。神さまがファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせたことでアブラムの嘘が明らかにされ、サライは宮廷からアブラムのもとに帰され、アブラムたちはエジプトから出て行かされます。サライをファラオに差し出した時に代償としてファラオから受けた財産を返さないままエジプトを後にしたアブラムは、エジプトに来た時よりも裕福になってカナンの地に戻ります。全ての民の祝福の源となると告げられたアブラムですが、祝福の源どころか、エジプトの宮廷に様々な災いをもたらしたのでした。

 

 神さまのみ業によって再びカナンへと戻ることになったアブラムの、約束の地で子どもを持つ望みが叶えられない日々がまた始まります。その間に神さまがアブラムに現れてくださり、多くの子孫が与えられるとの約束を再び与えられます。けれど子どもが与えられないまま、アブラムたちがカナン地方に住むようになってから10年が過ぎた頃、待ちきれなくなったアブラムとサライは、サライの女奴隷ハガルによってアブラムの子を得るという方法で道を切り開こうとします。そうして生まれてきた子どもと母親ハガルに、神さまは祝福の約束を与えられました。けれどハガルは、神さまが選び立てられた者ではありません。その出来事は、神さまの約束に信頼しきなくなったアブラムとサライが、神さまの約束を歪め、自分たちの手の中にあるものだけで約束を実現しようとしたものでした。

 

その後、子どもの誕生という約束が叶えられないまま、更に年月が過ぎてゆきます。神さまがアブラムに現れてくださることも、語り掛けてくださることも無いまま過ぎてゆくこの年月を、多くの人が二人の罪に対する神さまの裁きと考えます。そうして13年が経ったある日、神さまは沈黙を破り、既に99歳となっていたアブラムに再び現れてくださり、語り掛けてくださったのです。

 

神さまは、これまでと同様の約束を再び与えてくださいます。アブラムを多くの国民の父、諸国民の父とすると、アブラムの子孫たちにこの土地を与えると約束されるのです。アブラムは神さまの祝福の約束に信頼することにふらつき、時に大きくみ心から離れ出てしまう者であるのに、神さまは約束に誠実であり続け、更にアブラムに続く多くの子孫たちの中から諸国民が興ると、王となる者たちもその子孫から出ると約束されます。このことを神さまはアブラムとの間に契約を立てて、約束されます。アブラムとだけでなく、アブラムの子孫たちとの間にもこの契約を立てると言われます。この契約は代々に渡る永遠の契約であると、この契約は、神さまがアブラムと、アブラムから後に続く子孫たちの神となってくださるためであると、言われます。

 

アブラムは15章でも、契約を告げられていました。その時はアブラムが神さまに揺るぎない信頼を示すことができ、神さまがその信頼を義と認めてくださった後に告げられました。契約が真に確かであることまで不思議なみ業を通して示され、アブラムはそのみ業において役割を果たすこともできました。けれどその15章以降、今日の箇所までの間にあるのは、既に神さまが契約を結んでくださっているのに、神さまに信頼しきれなかったアブラムとサライの罪から出た企てと、13年に渡る神さまの沈黙です。恵みを受けるに値する相応しさがアブラムとサライの側に何も示されないまま時が経過した末に、神さまは今まで以上に豊かな祝福を約束してくださいました。神さまからの契約がアブラムの側の不確かさによって破棄されてしまうことも、小さくされてしまうこともありませんでした。神さまからの契約は、創造主なる神の人々に対する慈しみと赦しから注がれる、一方的な恵みです。だからこそアブラムはひれ伏し、主を礼拝したのです。

 

神さまはこの時アブラムに「アブラハム」という新しい名前を与えました。言葉の上では意味が大きく変わるわけではありません。神さまが与えてくださった名前に生きる者とされたことがアブラムにとって、大変大きなことでありました。多くの国民の父とすることのしるしとして新たに名を与えられ、神さまとの関係も新たにされ、神さまが自分を通して実現してくださる約束のために生きていくという自分の人生も、新たにされたのです。

 

この時神さまはアブラハムに対して、ご自分のことを「全能の神」と呼ばれています。アブラハムたちの罪と彼らの年齢や状態ゆえに、実現の道が閉ざされたと思うそのところにあっても、救いのみ業を推し進めることができる方であることを、「全能の神」というお名前は示します。この神さまに「従って歩み、全き者となりなさい」と言われます。「従って歩む」とは、「神さまのみ前に歩む」という言葉です。「全き者」となるとは、神さまの命令にすべて従える“完璧な人間”となることではなく、神さまのみ前に自分の存在すべてを置くということ、そして存在のすべてでみ前を歩むということです。アブラムとサライは、神さまのみ顔の前から離れ出て、み前に無い道を自分で歩こうとした結果、家族の関係を歪ませ、溝を深め、互いに傷を負いました。その家族に、神さまは赦しと全能のお力によって新たな出発を与えてくださいます。神さまから与えられた命と存在の丸ごとで神さまのまなざしの前に立つことへと、自分の力や才覚に頼るのではなく、それらもすべて神さまのみ前に注ぎ出し、赦しと約束を与えてくださる神さまの恵みに依り頼んで歩むことを求めてくださいます。私たちは、神さまのみ顔の前に出せる自分とそうではない自分、み顔の前に捧げられる言動と、そうではない振る舞い、そのように自分を分離させてしまいがちです。それでは私たちは丸ごと生きていることにはならない、与えられた命と存在の隅々まで神さまの祝福の光に照らされて生きることにならないと、神さまは気づかせてくださいます。自分が抱いている願いが実現されるのかされないのか、実現されるとしても自分の与えられた時間の中でそれを見ることができるのか、私たちには分かりません。ただ、願いも不安も、疲れも悲しみも弱さも不確かさも、丸ごとの自分でみ前に生きるならば、「全き者」としての道を歩んでいくことができます。その道はいつでも、神さまのみ前に進み出て、ひれ伏すように礼拝し、悔い改めるところから始まるのです。

 

このような生き方は、神さまの契約によって支えられています。契約という、神さまとの深い交わりの中を生きるようにと神さまは呼び掛けられ、契約を立ててくださいました。契約の相手であるアブラムやその子孫たちに、生涯み前に歩む者となるように、割礼を受けることがこの後命じられています。割礼は、神さまの契約の相手となるための条件ではなく、この契約に生きる者であることを表明するしるしです。自分の、また自分たち家族の神さまがどなたであるのか、自分たちはどなたに属する者であるのか、表明しつつ生きることを求めておられます。この自分において、自分の家族において、神さまの契約が与えられている、神さまの救いがもたらされていると表明できる道を、割礼によって示されました。

 

私たちにとっては、洗礼が契約のしるしです。キリストの命によって新しく結ばれた契約にこの私が生かされていることを受け入れ、洗礼に置いてその命に生涯生きていくことを宣言するのです。コロサイ書は、私たちがキリストにおいて、手によらない割礼を受けたのだと、それはキリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられることなのだと述べています。そのようにして新たにされることなど、私たちの力では決して成し得ません。キリストを死者の中から復活させられた神さまの、私たちの一切の罪を赦し、私たちの罪を十字架に釘付けにして取り除いてくださる、全能のお力と赦しによるだけです。このキリストの割礼と呼ばれる洗礼が、キリストの死と復活にあずかる新しい命に生きていこうとする一人一人の、出発点なのです。

 

コロサイ書は、コロサイの教会の人々が、世の様々な言葉の中にあって神さまの言葉を見分け、受け止めることができるように、「キリストに結ばれて歩みなさい」と26で呼び掛けています。「キリストにあって歩みなさい」とも「キリストの内に歩みなさい」とも訳される呼びかけです。神さまのみ前を歩みなさいと、そうして割礼を受けなさいと人々に呼び掛けられた神さまのみ言葉が、洗礼によってキリストに結ばれ、キリストの内に歩みなさいと呼び掛ける使徒の言葉にも響いています。

 

神さまは、諸国民に祝福を望まれて、アブラハムを選び立て、永遠の契約の中に全ての人々を招かれました。永遠の、ということは、この契約は無期限の効力を持つということです。神さまが私たちの神となってくださるというこの契約が、効力を持たない時が、私たちの生涯の内にも、死の先にも、無いと言うことです。私たちだけでなく、私たちが共にいることのできない後の時代の信仰に連なる人々にも、この契約が効力を持たない時が無いと言うことです。私たちの時間に限りがあり、私たちの状況が不確かであっても、この契約が私たちの希望と平安の拠り所です。

 

 

今、世界の中に深刻な対立があります。今この時、多くの血が流れ、多くの人の尊厳が踏みにじられています。また私たちの歩みにも、神さまの祝福を自分個人の中の一部のこととしてしまい、他者の祝福を心から求めることができない視野の狭さがつきまといます。神さまの祝福は私たちの存在の全て、生涯の全てに及び、私たちの家族に及び、共同体全体に及び、諸国の民に及ぶものであることを告げる神さまの契約の言葉に、深く耳を傾け、責任をもって応答することが、求められています。み前に新たに耳を傾け、ここからまたみ前での歩みを始めていきたいと願います。