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本当の神の子

2022.3.13. 主日礼拝

イザヤ55:10-11、マルコ15:33-39331

「本当の神の子」 浅原一泰

 

雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。

 

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 

 

ウクライナの悲劇が始まってから二週間以上が過ぎた。前回私が説教を担当させていただいた先月27日は、ロシアがウクライナ侵攻を開始したわずか四日後のことだったが、事態は一向に改善していない。病院や産婦人科、幼稚園や学校と言った、まったく罪もなければ害もない施設が次々と爆撃され、犠牲者は増え続けている。テレビや新聞、インターネットによって様々な情報が飛び交う中、また専門家たちが様々な解説や予測を立てる中で、ふとこんなことを思わされた。それは、ウクライナの現場で実際に爆撃に脅かされ、夥しい戦車の攻撃に悩まされて逃げまどっている人々にとって、そんな解説が何の助けになるのだろうか、と。むしろ、そのような情報ばかりに踊らされている内に人間は、現地で実際に恐怖と戦っている人々から、心が離れて行っているのではないだろうか、と。何が正しくて何が間違っているか、何が今やるべき得策で何がやるべきでない愚策なのか。そんな話に気をとられる内に人間は、それで問題のすべてが分かったかのように傲慢にも思い込み、最も忘れてはならないものを忘れているのではないだろうか、と。それこそが、神から、取って食べてはならない、食べると必ず死んでしまう、と言われたあの善悪の知識の実を食べてしまっていることになるのではないか、と。そんなことを思わされたわけである。しかしもし、爆撃を受けて惨状と化した病院や施設などにイエスがいたとしたら、(私はそこに必ずイエスはおられると信じているが)イエスはこのように叫ばれているのではないだろうか。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と

 

教会の皆さんにとっては当たり前のことかもしれないが、聖書の言う罪は、いわゆる犯罪とは全く違う。一般的に言う犯罪とは、殺人であれ盗難であれ傷害行為であれ、規定の法律に定められていることを守らない違法行為のことだ、と言えばそう見当はずれにはならないだろう。特に法に定められていないのであれば、たとえそのことで誰かを傷つけていたとしても、犯罪とはならないことになる。だからこそ法律の網の目をかいくぐって、違法行為すれすれの悪事がはびこることもあり得るわけである。それに対して聖書のいう罪は、法律とは関係がない。人間が、自分で自分を助けようとすることがそもそも聖書の罪である。自分を助けられる、こうすれば絶対に上手くいくと思うことが罪である。食べてはならない、食べると必ず死ぬ、と神から言われても、食べても死なない、むしろ食べればお前は神になれる、という蛇の誘惑の言葉にまんまとはまって、こうすれば自分は大丈夫だと思い込んでいった時点でその人間は神ではなく罪の奴隷となっていた。そうこうしている内に人間は自分自身の審判者であろうとし、他人に対しても審判者たり得ると過信して、容赦なく人を裁いていく。一切の罪は、すべてそこに端を発している、とどこかの本に書いてあったことを覚えている。

コロナ禍に入ってからの二年間、どれほどの量の情報に踊らされてきたことだろう。「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」と言った専門家たちの声がテレビで報道される程、いかにして自分の身を守るかを思い煩い、実際に感染し重症化して苦しみのどん底に追い詰められた方々や、寝る間も惜しんで治療に当たられた医療従事者の現場のご労苦から次第に遠ざけられているように感じたのは私だけだろうか。ロシアの大統領、政府高官に対する非難に明け暮れる報道ばかりが耳に入って来る中、ウクライナの現場で名もなき小さな、弱い命が危機にあることをふと忘れている瞬間を感じるのは私だけだろうか。そうして自分本位にしか物事を考えなくなるうちに人間は、神を見失っていく。神を忘れていく。ただでさえ、もともと神から遠ざけられていた我々は、キリストの招きによって、神の愛によって振り向かされ、引き戻されたからこそ教会につながれたのであるにもかかわらず、罪の誘惑によってまたしても神からも引き離されている、ということなのかもしれない。

 

しかしながら、人間がそうであるからこそ神は人間となられたのだ、というのが聖書の告げるメッセージである。神がイエスと言う人間の姿形をとって、罪の支配下にある我々の先頭に立って罪と向き合い、罪と戦い、最後の最後まで罪に屈服することなくその生涯を全うされた、ということが聖書のメッセージである。聖書のいう罪を犯さなかった人間は、後にも先にもこのイエスだけである。神が人となられたこの方を除いては、誰もが罪に敗北していた。私もそうであるが、皆さんもそうである。こうすれば安全だ、こうすればうまく行く、といった自分で自分を助けようとする情報というか知識の、誰もが犠牲になってきた。世界中の教会は、先々週の灰の水曜日からイエスが十字架の苦しみの道を歩んだことに思いを向けるレント、受難節に入っている。先ほどはイエスが十字架につけられ、息を引き取って死の眠りにつく場面が読まれた。それは極めて惨め極まりないように見受けられる場面である。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」だと。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」だと。あいつは神の子のくせに、惨めにも十字架につけられ憐みを乞い求めているのか。そう言われそうな場面である。俺だったらああいうヘマはしない。ああはなりたくない。と多くの者が感じてしまうように思える場面である。ただ、我々人間にそう思わせているのも、「こうすれば自分で自分を助けられる」、「こうすればうまく行く」かのように思い込ませる罪の思惑だとしたら。この十字架の場面が、今までとは違う景色に見えるのかもしれない。

 

これも教会の皆さんはよくご存じのことだが、この時弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去っていた。自分で自分の身を守ろうとしたからである。自分が、捕えられたイエスの仲間だと知られたら自分の身が危ない。弟子たちは皆、そう判断したからである。また、その場を通りかかった者たちは、「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と罵っていた。その場にいてそれを聞いた祭司長たちも「他人は救ったのに自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい、それを見たら信じてやろう」と侮辱を込めてイエスを罵っていた。イエスを見捨てて逃げた弟子たちの行動も、「ああなったらおしまいだ」とでも言いたそうな残酷極まりない野次馬たちの言い回しも、これをすればうまく行くとか、こうしておけば大丈夫だと人間に過信させる罪の思惑によって踊らされた行動であり言わされていた言葉だったとしたら、先ほどの聖書のあの場面、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とイエスが叫び声をあげたあの場面が、ありとあらゆる予想や先入観を覆して、まったく違って見え始めては来ないだろうか。誰もが罪に操られている中、そのことにも気づかずに誰もがイエスを見捨てる中で、誰もがイエスを嘲り、罵る中で、たった一人この方イエスだけは、死の間際まで「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んでいたのである。真の命の造り主なる神のみを頼って、神のみを求めていたのである。それは、サタンに唆され、罪に操られたまま神から引き離されていた我々人間全てを振り向かせるために、神が人となってまでして、我々罪ある者が受けるべき裁きの苦しみをこのように背負ってまでしての叫びであったとしたら。それでも人間は、「ああはなりたくない」などとは言えるだろうか。

 

サタンは分かっていた。分かっていたからこそ最後の最後までイエスを誘惑しようとしていた。先週の礼拝ではゲッセマネの祈りについて解き明かしていただいたが、なぜあの時イエスは「この杯を取り除けて下さい」と祈ったのか。死の苦しみが怖くなったからでは勿論ないだろう。その理由の一つは、後を託したいと思ってその為に育てて来たペトロを始めとする弟子たちが育っていなかったからだと思う。イエス一人に祈らせて弟子たちは眠りほうけていたと聖書は伝えているからである。これではまだ彼らに後を任せられない。もう一度教え直して彼らに自覚させなければ私はまだ死ねない。責任感が強ければ強い程そう思うのは無理もない。しかしそれも、そうやってイエスを神から引き離そうとする悪魔の巧みな誘惑であったと思う。「こうした方がいい、こうすれば大丈夫だ」と思わせる罪の囁きだったと思う。「しかし私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と続けて祈ることでイエスは悪魔を引き下がらせた。今、この十字架の場面ではサタンはせいぜい「エリヤを呼んでいる」と囁く野次馬の役割しかできないでいる。一方イエスはただひたすら神に全幅の信頼を置いて「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と最後の祈りを捧げている。その後の37節で、イエスはもう一度大声を出して息を引き取ったとあるが、この言葉にならない大声が、「しかし私の願うことではなく御心のままに」という、最後の最後まですべてを神に委ねる決意を全うする叫びなのではなかったかと。今、そのように思われてくるのである。

 

その時、神殿の垂れ幕は真っ二つに裂けたという。人の手によって造られた神殿は、神に委ねるどころかむしろ、この捧げものをすれば赦される、祭司たちにこの額を納めれば自分は助かる、などと言った、それで自分は大丈夫だと人々に思わせる罪の巣窟と化していた。その神殿の垂れ幕が引き裂かれた時初めて、誰もが罪に屈していた人間の中から一人の異邦人が、最後まで神のみに全てを委ねたイエスを見て叫んだ。「この人こそ本当の神の子だ」と。そしてそれは、「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。(中略)わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」というあのイザヤの言葉が遂に芽を出し始めた瞬間でもあったと思う。誰もが罪に踊らされて自分で自分を助ける知恵や情報ばかりに踊らされる中、神は私たちをこの礼拝へと招いて、この異邦人の叫びに続くようにとレントの今、求めておられるのだと思う。

 

 

ウクライナでイエスは、傷つき血を流して倒れている人々と共に苦しみを背負って、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んでおられる。77年前の広島や長崎でも、原爆の為に皮膚が爛れ、「水をくれ」と叫ぶことしか出来ずに息を引き取って行かれた被爆者と共にイエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んでおられたと私は信じている。気の毒に、ああはなりたくない、こうしておけば大丈夫だ、そう自分で自分を守れるかのように思わせる悪魔のささやきとはかけ離れて、そのすべてを振り切って神にのみすべてを委ねてこそ本当のあるべき命へ導かれるのだと、現地で苦しみの中にいる一人一人をそこへと生まれ変わらせようとイエスは叫んでおられる。二千年前、そのことを身をもって示すために神は人となられ、実際に苦しみの全てを、死の苦しみさえをも背負われたのではなかったか。そして、あるべき永遠の命を示すためにこそ神はイエスを十字架の死からよみがえらせたのではなかったか。ロシアによる爆撃が来ようと、悪魔が、罪がいかなる策をもって仕掛けてこようと、そして世界中が踊らされて自分で自分の身を守ることばかりに明け暮れようと、神だけは、神が人となられたこの方イエスだけは、自分で自分を助けようとの思い煩いの全てをかなぐり捨てて神に全てを委ねられた。悪魔からすれば、らくだが針の穴を通るほど困難極まりないこの方のその生き方も、神にはできることを示された。この主の姿をしっかりと目に焼き付け、心に刻むレントの日々を過ごしてまいりたい。