マルコ14:32~42「ゲッセマネの祈り」
2022年3月6日(左近深恵子)
自分や大切な人々の命と生活と未来が脅かされている多くの人がいることに、その人々が世界から見放されるのではないか、最後には見捨てられてしまうのではないかという恐怖を今この時も味わっていることに、この10日間ほど私たちは胸を痛めてきました。報道が刻々と伝えるその恐怖から、あの人々を、あの家族を、助け出すことができない現実に辛くなります。軍事侵攻を押しとどめることができなかった私たちの罪を思わされます。そしてまた、今回戦争の中に引きずり込まれてしまった人々の他にも、長く続く紛争や対立の中にある人々、そこから逃れても先が見えない人々、復興が進まない地域の人々、報道も社会の関心も離れたまま、助けを待っている人々が数知れないことも、そこに私たちの罪が関わっていることも、思います。助けを待っている人々の悲痛な思いを私たちが全く知らないということはないのではないでしょうか。このまま誰にも気づいてもらえないままなのだろうか、苦しみが誰かに本当に受け止められることはないのだろうか、このままこの苦しみは終わりへと至ってしまうのだろうかと、自分のことで、あるいは大切な誰かのことで不安や恐怖を抱いたことがあるから、あるいは今抱いている思いがあるから、画面に映る人々の安全、今日の暮らし、明日の暮らし、心身の安全を案じずにはいられません。次のニュースに話題が移っても、私たちがテレビやパソコンやスマホの画面を切り替えても、切り替わらない現実の只中にいる人々のために、言葉を探しながら私たちは祈ってきました。
主イエスは十字架にお架かりになる前日、12弟子と過ぎ越しの祭りの特別な食事を囲みました。主は、ご自分の傍にいる弟子たちがこれからご自分を見捨てることをご存知でした。主イエスを見捨てる動きは弟子たちの前に、既に民の指導者たちに起こっていました。神の民、ユダヤの人々の指導者たちは、自分たちの一員であり、それどころか彼らが待ち望んできたはずの救い主である主イエスを、自分たちの中から取り除こうと計略を練っていました。本来ならば真っ先に主イエスがどなたであるのか気づき、受け留め、喜び、人々をそのみもとへと導くはずの彼ら指導者たちは、主イエスが宣べ伝えておられた神の国の到来が、自分自身と自分の民において出来事となることを望まず、これまでの自分たちのやり方の延長線上にしか自分たちの未来を見ようとせず、その道を守るためなら主イエスの存在を命ごと取り除いて構わないのだとしていました。
その指導者たちの道へとユダが行こうとしていることを主イエスはご存知であり、晩餐の食卓で「あなたがたの内の一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」と言われます。自分の裏切りの思いを知り尽くしておられる主イエスの言葉にユダは驚愕したことでしょう。けれど他の弟子たちも、自分はその者ではないと言い切ることができず、「それはまさか私のことでは」と不安に駆られます。民の指導者たちだけでなく、主イエスに選ばれここまで従ってきた自分たちでさえも、主イエスを裏切る可能性を否定しきれないことに、彼らは気づき始めています。
主イエスは過ぎ越しの出来事をお祝いするその食卓で、パンと杯を弟子たちに渡しながら、すぐそこまで迫っている十字架の死と復活の意味を告げられました。そして食事の後、今度はユダだけでなく12弟子が皆ご自分につまずくと言われます。弟子たちは後に、実際に主イエスを見捨てて逃げ去って、この日の主の言葉が真実であったと知ることになります。そのような自分たちであることを既にご存知であった、その上で十字架へと進まれたことを知った彼らは、「あなたがたは皆わたしにつまずく」という言葉に、厳しさだけでなく福音の響きを聞くことができるようになったでしょう。けれどこの日の晩餐の席で、主の言葉は彼らに厳し過ぎるものにしか聞こえません。主につまずく者たちの中に自分が含まれていることをペトロは受け入れられません。他の弟子たちもそうでした。「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とペトロが言い、他の者も同じように言い張ったのでした。
食事の後、主は弟子たちを連れてエルサレムの都を出て、谷を渡り、オリーブ山の麓の「ゲッセマネ」という所に来ます。祈るためでした。ご自分が祈っている間そこに座っているようにと弟子たちに言われます。そして弟子たちの中から特に傍に伴うことの多いペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて少し先に進み、そこで3人にもご自分が祈っている間、ここを離れず、目を覚ましていなさいと言われます。あなた方の内の一人が私を裏切ると、あなた方は皆私につまずくと告げられた弟子たちに、ご自分と共にゲッセマネで祈ることを求められたのでしょう。祈って、裏切りやつまずきが現実となるその時に備えるように求められます。教会の暦では先週の水曜日からレントに入りました。レントの間、断食をする人々もいます。レントの間に断食をするのは祈りに集中するためだと言われています。弟子たちの罪も担って十字架へと進まれる主が、弟子たちにご自分と共に祈るように求めておられます。この主によって、私たちも祈りに集中することへと促されるのです。
3人は主イエスから「目を覚ましていなさい」と繰り返し呼び掛けられました。ただ起きていることを命じておられるのではなく、目を覚ましていて、共に祈ることを求めておられるのでしょう。「目を覚ましていなさい」という呼びかけを、弟子たちはこの晩初めて聞いたわけではありません。同様のことをこのところ主は何度も言われてきました。エルサレムの神殿で人々に向かって、偽善的な律法学者に「気をつけなさい」と言われました。それは「よく見なさい」「よく考えなさい」という意味の言葉でありました。弟子たちにも、救い主を名乗ったり、終わりはいついつに来ると言って惑わす人に「気をつけなさい」と教えられました。それらの教えを弟子たちに語り終えられた時にも、「気を付けて、目を覚ましていなさい」と言われました。人々が様々なことを言い、様々な価値観が力を持つこの世界で、神さまのみ心は何であるのか、神さまのご支配は今どんな出来事となって起こっているのか、それは内なる目で見なければ見えないことです。祈り無くして見えてこないものです。弟子たちが目を覚ましていられなかったのは、体力的にも精神的にも疲れきっていたからかもしれません。しかしそれは主イエスも同じであったでしょう。それでも主イエスはご自分の祈る姿を見つめ、ご自分の祈りの言葉に耳を傾け、共に神さまに祈りながら、来たりつつある裏切りとつまずきと死の時へと備えることを求められました。弟子たちにそうであったように、目を覚ましていられない理由が私たちにもそれぞれあります。主イエスは一人一人に「誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい」と言われます。目を覚まし、主イエスを見つめ、神さまのみ心を見つめていることが、裏切りへと、主イエスにつまずくことへとどうしても引きずられてしまう人間に、必要なものです。祈りの合間に弟子たちのところに来られては「目をさましていなさい」と言われる主イエスは、ご自分の祈りの間、間で、弟子たちが誘惑に陥らないように、目を覚ましていられるように祈ってくださったということでありましょう。三人はこの晩結局目を覚ましていることができませんでした。弟子たちと最後に共に過ごしたこの日、夜を徹して祈っておられた主と共に祈っていた者はいませんでした。弟子たちは既に皆、主を見捨てていたのです。
この晩主は、ひどく恐れてもだえ苦しむ姿を弟子たちに隠そうとは全くされませんでした。「わたしは死ぬばかりに苦しい」と彼らに言われました。「死ぬばかりに苦しい」とは、この苦しみ悲しみは、ご自分を滅ぼすほどに大きく深いという、悲痛な嘆きの言葉です。この表現は詩編42編で繰り返される「なぜうなだれるのかわたしの魂よ、なぜ呻くのか」というフレーズと重なるところがあります。詩人はその後、「わたしはなお、告白しよう、御顔こそ、わたしの救い」「わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす」「神を待ち望め」と続けます。聖書に記されている他の預言者たちの、主に従う者の苦しみ悲しみ怒りを吐き出す言葉も、同じように神さまを仰ぐことへとつながっていきます。たとえ自分が願ってきた仕方ではなくとも、その現実の中にあっても、実現している神さまのご意志を見つめることへと導かれます。主イエスはそれらの詩編の詩人や預言者たちが言葉にしてきた苦しみ悲しみを思い起こし、今味わっておられる苦しみの中に神さまのご意志を見つめようと、苦悶しておられるのでしょう。
主は死に至る苦難を神が既に決定しておられるなら、何を祈っても、何を訴えても無意味だとはされません。思いを率直にみ前に注ぎ出します。地面にひれ伏すという、最も謙虚な祈りの姿を取り、神さまのみ心を受け留めることに苦闘します。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られます。「この杯をとりのけてください」と、苦しみがご自分から取り除かれることを願います。「アッバ、父よ」と、父と子の特別な親しさにおいて、率直に訴えておられます。主イエスは、いつかは死んでゆく人間の一人として、その死を死ぬことに足掻いているのではありません。これまで自分が重ねてきた神さまのみ心に対する背きや過ちの値として、死が圧し掛かってくることを恐れて、身を縮めておられるのではありません。全ての罪人の罪の重みがご自分に降りかかってくる、その罪の裁きとしての死を死ぬことに苦闘しておられます。私たち一人一人の罪に対する神さまの裁きと、罪なき方が向き合い、苦しんでおられます。私たちは自分自身の罪すら、向き合いきれません。主イエスはそこから逃げることも、身を縮め目も耳も塞いでやり過ごすこともせず、裁きの死と、正面から四つに組むようにして向き合い、もがきながら祈られます。そしてその祈りは、「しかし、わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」という祈りへと導かれます。そして「時が来た」と、立ち上がり、捕らえに来た者たちの所に自ら進んで行きます。倒れ伏し、のたうつような祈りの苦闘を経て、この苦しみが神さまのご意志であることを受け留め、神さまのご意志に従うことへと至ったのです。
他の福音書には主がこう祈りなさいと弟子たちに「主の祈り」を教えられたことが記されていますが、マルコによる福音書には、「主の祈り」が記されていません。けれどゲッセマネの祈りの中に、主の祈りにある祈りと重なるものが二つあります。「み心に適うことが行われますように」は「み心の天になるごとく、地にも為させ給え」という祈りと重なり、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」は「こころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りと重なります。主ご自身が主の祈りにどのような思いを込めて、主ご自身がどう祈っておられたのか、ゲッセマネの祈りにおいて私たちは知ることができるのです。
二度目に三人の弟子の所に戻ってこられた主は、「心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。「心」と訳された言葉には様々な意味がありますが、新約聖書の多くの場合人の感情や精神の座と考えられています。苦しみや悲しみ、安らぎや燃える思いを抱く座であり、何が正しいことなのか、何が神さまのご意志であるのか考え、苦難に耐え、神さまに従おうと決意する座です。そこにおいて弟子たちが燃えていることを、主は認めておられます。ペトロや弟子たちは、真っすぐな思いで主に従う決意を述べたばかりです。しかしまた弟子たちは疲労からの回復も睡眠も必要とする肉体で生きています。心は燃えても、肉体は弱いのです。
「心」と訳された言葉は元来「息」を意味する言葉です。神さまがお造りくださった体に息を吹き込まれて、生きる者としてくださったと、創世記は人が生きるということを伝えています。絶えず新しい空気を吸いながら生きるように、絶えず神さまのみ言葉をいただき、聖霊に力づけられながら生きることが、直ぐに感情の座も精神の座も肉体も弱る私たちに必要です。詩編51:12でこう歌われています、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」。私たちはこれまで沢山の神さまの言葉をいただいてきました。神さまの霊を注がれてきました。けれどいただいたみ言葉はしばしば、夜中のゲッセマネのような私たちの心の中でどこかの闇に紛れてしまい、私たちの目はそれを見出さないまま瞼が重くなってしまいます。いただいているみ言葉に再び聞き直すことへと導いてくださる聖霊のお働きに自分自身を開くことよりも、身を縮めて苦しみをやり過ごそうとしてしまいます。私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてくださいと祈ることが、主イエスを見捨て、神さまのご意志から離れてしまう自分の罪を背負うために必要です。神さまの言葉と神さまの霊が、自分のために夜を徹して祈ってくださった主イエスを見つめ、従う、信仰の歩みの足腰を強めます。神さまのご意志を理解しきれず、肉体や精神の疲れに引きずられ、眠りに落ちてしまう私たちの傍らで、嘆きの祈りに耳を傾けてくださる神さまに信頼し、ただお一人、裁きの死を死んでゆく苦しみと闘われた方、その苦闘の中で私たちを救う十字架の道を選び取ってくださった方、傍らの私たちに「もうこれでいい」「もうよかろう」と赦しの言葉をかけて、その上で「立て、行こう」と呼びかけてくださる方と共に再び踏み出したいと願います。