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信仰によって

「信仰によって」ヘブライ111316

20211114日(永眠者記念礼拝)左近深恵子


 毎年、永眠者記念礼拝のこの日、既に主に召された美竹教会の信仰の先達を覚えて礼拝を捧げます。普段はそれぞれが、誰かの不在に寂しさを覚えながら過ごしています。親しかった者同士でその人の思い出を語ることもあります。誰かを懐かしむ思い、波のように襲う悲しみや悔やむ思い、それらを抱えたまま主のみ前に集う日です。何年経とうとも消えることなく、深いところで疼く別れの傷を負っている一人一人が、共に一つ所に集い、私たちをこの場へと呼び集めてくださった、ただお一人の慰め主なる神を仰ぐことができる日です。礼拝の席に座っておられた姿を思い出す方々のことを思います。直接はお会いすることがなかったけれど、その方のことを大切に心に刻んでおられる方からお話をうかがった方々のことを思います。また70周年記念誌など、書かれたものを通してその足跡に触れることができた多くの方のことを思います。それぞれの時代に美竹教会で礼拝を捧げてきた信仰者、お一人お一人の歩みに思いを馳せ、私たちの信仰生活が信仰の先達の歩みに連なるものであることを心に刻む日です。

 

 昨年の永眠者記念礼拝以降、主のみもとへと旅立たれた教会員の方が二人おられます。111日にTさんが、入院しておられた病院でこの世の旅路を終えられました。礼拝に出席しておられた頃は、聖餐式のパンをご自宅で焼いてくださっていました。礼拝の頂点である聖餐式のために、大切な働きを担ってくださいました。ご夫妻共にお元気であった頃は、お二人でよく礼拝へ出席されていたと、親しい方が信音に書いておられました。先ほど共に歌いました讃美歌514番は、Tさんの愛唱讃美歌でありました。

 

75日にはHさんが、自宅療養で寄り添ってこられたご家族に見守られながら、生涯を閉じられました。長老として、伝道委員長として、礼拝を重んじられ、溢れるような熱意で伝道に心と力を注いでくださいました。中心になって教会の活動を推し進める方である一方、教会に来られなくなっている方々、一人一人のことを大切に思い、祈り続けた方でありました。Hさんも、ご家族と共に礼拝に集うことを大切にしておられる方でした。そのご家族の献身的な支えを受けられながら、幾度も病から回復されたHさんの力の源は、キリストの恵みの力でありました。この後歌います讃美歌199番は、Hさんの愛唱讃美歌です。この讃美歌が歌う、罪の赦しを得てキリストの恵みの光に照らされて歩むことのできる喜びにも、Hさんの力が証されているようです。

 

今年はまた、教会員ではありませんが、礼拝をご一緒にささげてきましたAさんが、423日に地上での生涯を終えられました。Aさんは美竹教会出身の教職で、ご夫妻で牧師として教会に仕えてこられ、牧会を引退されてから、再び美竹教会の礼拝に出席され、また礼拝後の集会にも参加して交わりに加わっておられました。コロナの終息を願い、早く美竹に行きたいと祈っていますと教会に宛てて書いてくださったお手紙を、読み返しました。

 

病気やコロナによってお会いすることがほとんどかなわない状況の中で、三人の方と、お別れの時を迎えることになってしまいました。この厳しい、寄り添うことが非常に難しい日々の中で、近くにある時も離れている時も心を砕きながら力を尽くしてこられたご家族の支えの大きさを思わされます。

 

コロナの感染拡大によって、葬りの礼拝を教会で行うことが困難な状況がありました。また教会で行われる葬りの礼拝に、願いながら来ることができない方も多くおられました。なおも教会に来ることが叶わない方が多くおられますが、これまでよりは改善した状況で永眠者記念礼拝の日を迎えることができたことは、まことに感謝であります。

 

 この一年召された方々を含め、信仰の先達の、命と死を大切に思い起こす時を与えられています。先ほど共にお聴きしましたヘブライ人への手紙の箇所も、信仰の先達の生涯と死を見つめています。旧約聖書に登場する人々の歩みを一人一人思い起こす第11章の一部です。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラの名前が次々と挙げられ、その生涯が思い起こされます。「信仰によって、アベルは」「信仰によって、エノクは」「信仰によって、ノアは」「信仰によって、アブラハムは」「信仰によって、サラは」と、それぞれの生涯の歩みが「信仰によって」推し進められたことを語ります。その死についても「信仰によって」と語ります。これまで一人一人のことを語ってきて、13節からまとめの部分に入ります。その13節にこうあります、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」。信仰によって生きただけでなく、信仰によって生涯を終えていったことをはっきりと語るのです。「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」たと続きます。生涯の内に成し得た偉業だけにライトを当て、讃え、記憶に留めていこうと、“この人たちは皆、信仰を抱いて立派に生きた。私たちもこの人たちに倣って、立派に信仰を抱いて生きていきましょう”とまとめません。そこで終わらないのだと、命の日々だけでなく死の中へと進みゆくときも、この人たちは信仰を抱いていたのだと、信仰による歩みは死によって終了ではないのだと証しようとする強い願いが伝わってきます。

 

 多くの人は、信仰というものは、自分の人生をより良いものにするためのものだと信仰を捉えています。厳しい局面では信仰が力になる、信仰はないよりもあった方が日々が豊かになる、自分の人生の補強したいところを強化するのに信仰が役に立つ、自分がやりたいことを実現するのに信仰が有利になることがある、そのように信仰を見ているとすれば、それは生涯という限られた年月の中だけのことです。たとえ死も視野に入っていたとしても、私たちが見つめることができるのはせいぜい命が終わってゆく死の間際の時、自分が生前ある程度備えることができる範囲の死でありましょう。私たちは自分一人では、死を見つめることができません。死を見つめることができない者が命を見ようとしても、死によって終了してしまうものに見えてしまいます。

 

 信仰に生きる人は、生涯の先に信仰を抱いて死んでいく死を見据えながら生きます。自分の備えが届かない先の先に、信仰によって望みを抱きながら、歩み続けます。例えばノアは、他の人々が悪いことばかりを心に思い計っている中で、まだ見ていない事柄について告げられる神さまの言葉に信頼して、ひたすら箱舟を造りました。神さまはどこを新しい故郷としてくださるのか、大水の只中をさまよう箱舟はどこに行き着くのか分からない中、ひたすら水が引くのを待ち続けました。例えばアブラハムは、生まれ故郷を離れ、住み慣れた土地を後にし、神が約束された新しい故郷を求めて、それがどこにあるのか知らぬまま旅に出ました。妻サラとの間に子どもを望めず、もう決して若くはない年齢のアブラハムでありましたが、「あなたを大いなる国民にする」「あなたの子孫にこの土地を与える」との神さまの約束に依り頼んで出発し、他国に宿るようにして歩み続けました。もし出てきた土地のことを思っていたのなら、戻ることもできたでしょう。行く先も分からない、先が見えない日々を、不安定な宿り人の身でいるのではなく、住み慣れた土地での裕福な暮らしに戻り、穏やかな余生を死の時まで続けることもできたでしょう。しかしアブラハムは故郷に戻ろうとはしませんでした。自分の生涯の内に自分が手に入れることのない約束、自分の子孫に対して告げられた約束をはるかに望み見ながら、旅を続けました。

 

 ノアの時代の人々は、なぜノアが水のない所に箱舟を造るのか、理解できなかったでしょう。アブラハムの時代の人々は、なぜアブラハムが旅立つのか、なぜ困難な旅を続けるのか、なぜその失望の内に死を迎えないのか、不可解であったでしょう。ノアもアブラハムも、また聖書の民がその信仰の歩みを重んじたイサク、ヤコブも、神さまが約束された真の故郷を探し求めていたから、約束されたものをどれだけ手に入れられるかが人生の価値を決めるものではないことを知っていました。天にある真の故郷を仰ぎ見ているから、自分たちは地上にあってはよそ者、仮住まいの者であると、喜んで語ることができました。天の故郷を熱望しながら歩む地上の旅路を、生涯と言う神さまから与えられた日々を、歩み通すことができました。他の人々が「なぜ」と不可解に思う、その「なぜ」は、信仰でありました。彼らには信仰があったから、天に国籍がある者として地上を歩み、信仰によって死の先にある天の故郷を見つめ、信仰によって死の向こうにある方を仰ぎながら死の時を迎えたことを知るのです。

 

 Tさん、Hさん、お二人は親しくしておられたと聞きました。Hさんが病に倒れられ、教会の礼拝に来られなくなったとき、Tさんが力を落としてしまうのではないかと案じられ、ご自分の病状を伏せておくことを望んでおられるとうかがっていました。その後Tさんが入院を繰り返されるようになり、礼拝に来ることができなくなりました。息子さんの配慮により、入院の度に連絡をいただくことができ、病院にTさんを幾度かお訪ねしました。体調が思わしくない中でも、いつでも穏やかな優しさで迎えてくださるTさんが、いつも控えめにHさんはどうしておられるかと尋ねられました。教会で信仰の友となり、それぞれの賜物を捧げて主に仕え、共に教会を支えてこられたお二人が、それぞれの病床にあっても互いに案じ、祈り合っておられることに打たれる思いでした。直接互いを訪ねることができなくなっても、そのような療養生活が何年続いても、主によって結びついている人々のつながりが断たれることは無いのだと、思わされました。親しかったお二人は、同じこの年に地上の生涯を終えられました。お二人とも、信仰によって療養の日々を生き、信仰によって他者のために祈り、信仰によって地上の生涯を歩み通されました。かつてTさんは「美竹教会から天国へ送っていただくのが私の願いです」と書いておられました。お二人は共に、信仰によって、死の先にある同じ天の故郷を仰ぎ見つつ、生涯を閉じられたことと思います。

 

 

 旧約聖書の時代からこの時代まで、天にある故郷をはるかに仰ぎながら信仰によって生涯を歩み通した人々を思うこの時、私たちは生涯の表に形になって表れているものだけを見るのではなく、その言葉や行動の内側にある、その人が抱いていたものをこそ、見つめたいと思います。たとえ世の評価からは理解しがたい望みであろうとも、たとえそれを十分に手に入れることができず、この世においてやり遂げる者となれなくても、信仰者にはそれぞれ、はるかに望み見ているものがあります。そこに喜びが伴うことの不思議さを味わっています。信仰者は、よそ者として地上を旅する者です。その旅の途中で終わりの時が来ます。完成を熱望し、望みの完成を生涯の目標とするのであれば、その死は受け入れがたいものであるか、力尽きたものであるでしょう。しかし信仰者が熱望するのは、ただ天の故郷です。神さまのもとに召されるまで、常に道の途上にある旅人です。罪にとらわれ続ける私たちを救い出すために、神さまがみ子を世に遣わし、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って死んでくださったことによって、この神さまの道へと招き入れられたのですから、神さまに喜んでいただきたいと願って歩むだけです。私たちの命の時も死の時も、死の向こうも、私たちのものではなく、神さまのみ手の中にあります。み子が私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けてくださったのですから、私たちは死においても孤独ではありません。私たちの地上の日々の営みを、キリストと共にある終わりから照らされる光の中で見る時、私たちの生涯は意味のあるもの、価値のあるものとなります。自分の力で生きようとするところから、生かされているところへと、導かれます。死を越えて生きるいのちを、キリストの復活の命から与えられ、その命によって、一日一日を生かされていることを受け止める者とされます。命においても死においても、キリストの恵みのみ手にわが身を委ね、天の故郷を仰ぎ見つつ、それぞれがはるかに望み見ているものを求めつつ、旅路を続けてまいりましょう。