N.T.ライトという英国を代表する世界的な新約聖書学者が、昨年来のパンデミックに覆われた世界で、聖書は何を語るかを書いています.『神とパンデミック コロナウィルスとその影響についての考察』(鎌野直人訳、あめんどう)として日本語でも読める100頁ちょっとの小さな本です.第5波が急速に下火になった今、ホッと一息しながらも、必ずや来ると言われる第6波に備える中で、改めて読んでみたのです.嵐は去ったのか、いや嵐の前の静けさなのか、そんなことを思いながら、ページを繰っていく中で、ライト先生が、パンデミックに対する反応を大きく3つに分類して、さらにそれを古代の哲学者たちの考え方と重ね合わせている興味深い箇所に行き当たりました.ある人たちは、古代のストア派のように、「全てはどうなるかプログラムされている.変えることなどできないのだから、なんとか上手くやっていくしかないのだ」とひたすら耐え抜こうとしてきた、と.別の人たちは、エピクロス派のように、「あらゆることはランダムなのだ.どうしようもない、できる限りその現実に馴染むしかない」と「ひどいことは起こる、でも何かしらの慰めが欲しい、だから、そんなことには慣れっこになって、自主隔離してネットフリックスで色々見てやり過ごそう.いつかは過ぎ去るのだから」と考える.また別の人は、プラトン主義のように「現在の生活は、実在の影に過ぎない.この地上ではひどいことも起こる.けれども私たちは、こんな世界とは違った世界に行くように運命づけられている」「死は決して最悪の事態ではない.いずれにしろどこか他の場所に向かっているのだ」と考える、と.
では初期のクリスチャンたちは、何を考え、何をしたのか、そして現代のクリスチャンは何を求められているのだろう、と問われるのです.疫病が度々町を襲った紀元3世紀くらいまでのこと、裕福な人たちは丘の上に避難したけれど、当時のクリスチャンたちは、あえて病魔が猛威を振るう街に留まって人々の看護をし、時に病に犯されて命を落としていった、と.それを見て人々は驚きながら「彼らは一体何をしているんだ」と問うた.その時クリスチャンたちは「ええ、私たちはイエスというお方に従っているのです.このかたは、私たちを救うために、自分の命を危険に晒したのです.だから私たちも同じようにするのです」と。旧約聖書以来、イエスキリストを通して身についている生き方が、貧しい人、病人、除け者や奴隷に対して、特別に心を配る神がおられることを知っており、信じており、この神にふさわしいものとされることを求めて、この主に倣って生きる、それがパンデミックであろうとも、変わらない.今こそ改めて聖書の語る主イエスに倣う生き方を思い起こしたいと思わせられたのです.
今日の箇所には、疫病もパンデミックも出てきません.けれども激しい発作を伴う病を負った子どもを抱えて、なす術もない無力感に苛まれ続けて、絶望的な敗北感を抱き締めて生きざるを得なかった家族と、その家族の求めに何もできなかった主イエスの弟子たちが出てくるのです.無力感と敗北感に打ちのめされた人たちに向けて、主イエスが示された大事な生き方を伝えているのです.しかもマルコによる福音書は、この箇所を特に大事に書き記していると言えます.他の福音書にも同じ話は出てくるのですが、マルコによる福音書は2倍近い長さで、登場人物の描写や言葉も詳細に綴っています.無力感と敗北感にまみれた者たちに相対された主イエスの姿を、ともに聞いて参りましょう.
先週の箇所で、主イエスは栄光のみ姿を表されました.マルコ福音書の冒頭で洗礼を受けられたときに天が裂けて「神の子」であることが啓示されて(1:11)、福音書のちょうど中程の先週の箇所で、山の上で姿が変わって、改めて「神の子」であることが示され(9:7)、そして福音書の最後の十字架の場面で、クライマックスで1人の兵士の口を通して「神の子」であることが明らかにされる(15:39)マルコ福音書の全体の構成の中では要となる箇所でした.今日はその後に続くものです.大変なギャップと言いますか、コントラストが際立つと言えましょう.主イエスの栄光の場面から一転、病の力に翻弄されて死戦を彷徨う子どもと絶望に打ちひしがれる父親、無力を責め立てる律法学者たちの難詰と同調する群衆に囲まれる主イエスの弟子たち、ひいては主イエスキリストの権威さえ地にまみれるかのような場面です.ふとマルコ福音書の冒頭の主イエスの洗礼の場面のすぐ後に荒れ野でサタンの試みに遭われた主の姿を思い起こさせられます.あるいは、旧約聖書でモーセが山の上で神と出会って契約の板をいただいた聖書の最も重要な場面の直後に、山の麓では人々が金の子牛を造って飲めや歌えのドンチャン騒ぎをしている場面が描かれるのを思い起こすこともできます.マルコによる福音書の読者、そして聞くものたちは、これらの箇所を思い起こしながら、今日の場面も耳にしていくのです.
山から降られた主イエスを待っていたのは、群衆に取り囲まれ、律法学者たちから詰め寄られてなす術もなく佇む弟子たちの姿でした.主イエスに気づいて驚き駆け寄ってきた人々の中に、おそらくてんかんと思われる症状を抱えて苦しみ続ける息子の父親がいた.そして訴えるのです.霊に取り憑かれて口が聞けず、発作が出るとところ構わず昏倒して、口からは泡を吹いて、歯を食いしばって硬直してしまう.なんとかしていただけると連れてきた.あなたはおられないので、あなたの代わりであるお弟子さんたちに霊を追い出して、この子を助けてもらおうとしたけれど、できなかったのです、と。弟子たちはかつて2人づつ組になって伝道のために遣わされて、悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒す働きをしたこともあり(6:13)、父親をはじめとする群衆も、そして弟子たち自身も、主イエスの弟子たちならば、主イエスと同じ権威と力を持っていると考えたとして不思議はなかったのです.けれども、「できなかった!」ここぞと普段から主イエスを疎ましく思い、ご自身を神の子とすることに怒りを覚えていた律法学者たちは、あげつらうのです.弟子たちの無力は、イエスの無力だと.おそらく主イエスの権威が揺るがせられ、父親の当初の、この方、あるいはその方の弟子たちならば、という信仰も揺さぶられていたことでしょう.
主イエスへの不信感が、弟子たちの無力感と敗北感と相待って巻き起こる中、主イエスは嘆かれるのです.「ああ、なんと不信仰な時代なのか!」胸をかき裂くような悲痛な叫びです。この父親の信仰を揺さぶり、息子の味わう地獄に引きずり込んでゆく。神も何もあるものか、主イエスだって結局は、何もできないではないか、というニヒルで冷たい視線に凝り固まって、貧しい人、病人、除け者や奴隷に対して、特別に心を配ることなど打ち捨てて、動かすことをやめて凍てついた心を抱えて、どうせ世界なんてそんなもんだ、どうなるもんでもない、ともっともらしくうそぶいて、目の前に泡を吹いて転げまわる子どもと父親を脇において神の不在とイエスの無力を論難することに終始してしまう、弟子たちの方も自分たちの無力感にただ脱力して、足元みつめているような時代を主イエスは嘆くのです。「いつまで、あなたがたと共にいられようか、いつまでがまんすればいいのか」と。まもなく十字架が迫る、いつまで、あなたがたは冷たく頑ななままでいるのか、と。
主イエスのまなざしは、子どもに注がれるのです。けいれんを起こして地面に打ち倒され、泡を吹いて転げまわる。体中傷だらけだったでしょう。青あざだらけだったでしょう。幼い時からずっと、予期せぬ時に突然襲う発作は、この子を何度も火の中や水の中に投げ込んだ。そのたびに親は、自分を代わりに殺してくれと叫んだでしょう。火の中水の中に飛び込んではこの子を抱きしめて助けを求めては、裏切られ、絶望が絶望を上塗りしてゆく。
霊は息子を「滅ぼそうと」地面にたたきつける。それは神の似姿として創られたはずの「人間」を破壊するものであって、絶対に許されざる神への敵対行為に他ならないのです。その力に翻弄されるうちに父親はいつしか滅びの力に足を取られる、そして主イエスの救いの力に限界を見て口走るのです。「もしあなたにできるのでしたら、私たちを、この子と私たち家族を憐れんで助けてください」と。
主イエスは、この父親の揺らぎの内に芽生えている主イエスの救いの力への疑い、人間を破壊する力を滅ぼしうる力への迷いを聞き逃さなかったのです。これはご自身のお力がどうのという問題ではない、これはこの父親の魂、この父親の生きるか死ぬかの信仰が問題だ、と。このまま滅びてしまってはいけない。父親、そして親の祈りと守りなしには生きられない息子が、滅びてはいけない.だから抱きとめるようにしておっしゃる。「もしあなたに何かできるなら」とあなた、言うのか?と。どうせこの人にできなくても仕方がない、変に期待して傷から血を流し続けることに耐えられない、子を失う恐怖が身に沁みついてしまった、下手に信じないことがなんとか生き抜くための習い性のようになった生き方に、主イエスは全身で全力で飛び込んでこられるのです。この父親を救い出すために。「もしあなたに何かできるなら?」と言うのか。あなた一体誰を前にもの言っているのか。信じないものではなく信じる者になりなさい。信じる者には何でもできる。人の持つ希望も力も信仰さえも、全てが潰えたときに、もっとも明らかになる神の力を信じるか?と。その神の力を通して成し遂げられる業に勝手に設けた限界を、あなた破れるか?と。祈りとは、全ての願いと望みが潰えた先で、神に出会うこと.
父親は自らの破れを破り、潰えた信仰の先で信じた。疑い迷いの闇夜を裂いて信仰の夜明けに父親は光を見た、父親をからめとる死の力はキリストの招きによって破られた。「信じます。信仰なき我を助けたまえ」。父親の信仰告白は、マルコ福音書を読むすべての人にとっての信仰告白でもあります。
自らの限界に無力をかこつとき、敗北感に意気消沈するとき、疑い迷いの闇夜に潜む時、そこにこそ天を裂いて主は来られたことを、勘違いと的はずれな生き方の先に、傷つき祈りを失ったものを「わたしのところに連れてきなさい」と命じられ、死んだとみなされた屍の手を取って起こされ、立ち上がらせたことを福音書は語るのです。そしてこの福音書を通して主イエスと出会ったから、今の時も私たちは応えるのです。
「ええ、私たちはイエスというお方に従っているのです.このかたは、私たちを救うために、自分の命を危険に晒したのです.だから私たちも同じようにするのです」と。
今週も、主イエスのみあとに従う歩みを刻んで参りましょう.祈ります.