マルコ8:31~38「十字架を背負って従う」
2021年10月3日(左近深恵子)
マルコによる福音書からこれまで聞いてきたのは、福音を宣べ伝える主イエスのお働きでした。主が安息日の礼拝を中心に様々なところで語られる教えに、人々は非常に驚いたとありました。それまで人々が聞いてきた会堂の指導者たちのようにではなく、権威ある者としてお教えになったからであると。主イエスがなさることにも人々は大変驚いたとあります。主イエスのように、歩けなかった者を歩けるようにし、見えなかった者を見えるようにし、聞こえなかった者を聞こえるようにし、飢えた者を満たしてくださる方はいなかったからです。人々は主イエスの教えとみ業を求めるようになりました。人々は、主の権威と力に圧倒されたのです。
マルコによる福音書の中間は第8章から、主イエスの福音説教の旅が大きく向きを変えることを伝えます。エルサレムへと向かいます。主のご生涯は初めから十字架へと向かっていました。その意味では初めからエルサレムに至る道を歩んでおられたと言えます。けれどここまではガリラヤの地域で人々に神の国の到来を語ること、神さまのご支配が主イエスにおいて人々の間に到来しつつあることを語り、またその神さまのご支配を示すみ業をなさることに力を注いでこられました。ここからは都エルサレムへと向かいます。その転換点である今日のところで、民の指導者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると、告げておられます。これまでは主イエスが権威と力を持つ方であることが明らかにされてきました。ここからは、権威と力の意味が明らかにされてゆきます。
民の指導者たちが主イエスへの敵意を募らせていることはこれまで語られてきました。今日の箇所の少し前では、指導者たちがしるしを求めていることが語られていました。彼らは主イエスが神さまから遣わされた者であることを示すしるしを求めます。天からのしるしは既に沢山もたらされていました。主イエスが語られた福音、主がなさった様々なみ業。しかし指導者たちはそれらでは証拠になっていないと、主を信じません。彼らが求めているのは、自分たちが想定する枠の中に納まる言葉と業です。結局彼らが求めているのは、「天からの」ではなく、「彼ら自身の」しるしです。彼ら自身が正しいことを証明するしるしです。主イエスは弟子たちに、このようなしるしを求める思いを「パン種」と呼ばれ、この要求は指導者たちだけでなく、誰の中にも混じりこみ、いともたやすく大きくなってしまうものだと、指導者たちのパン種に気をつけなさいと戒められたのでした。
そして主は弟子たちに、「わたしを何者だと言うのか」と問いかけられ、弟子たちを代表して答えたペトロから、「メシアです」との答えを引き出されました。あなたこそメシア、救い主です、とのペトロの答えは正しいのですが、ペトロや弟子たち、そして当時のユダヤの民が心の内に思い描いている救い主は、主イエスご自身からかけ離れています。主イエスは、彼らが想定している救い主の枠に納まる方ではありません。だから主は弟子たちに、ご自分のことを話さないようにと戒められました。そして今日の箇所で、ご自分が受けられる苦しみと死と復活を語られ、ご自分がどのような救い主であるのか告げてくださったのです。
弟子たちは、指導者たちの主イエスに対する敵意が次第に増していることを知っていました。しかしこの対立が、最後は主イエスが指導者たちに捕らえられ、苦しみを受け、殺されて終わるなどとは、とうてい受け入れられません。弟子たちや民にとって救い主は、敵対者に対して勝利することで栄光を手に入れるはずの方であり、そのことによって自分たちにも勝利と栄光をもたらすはずの方でした。ペトロは、そんな弱気になっていてはだめだと励まそうとしたのでしょうか。不利だと分かっているならもっと苦しまず、死の危険も無い他の道を探すべきだと諭そうとしたのでしょうか。主イエスを脇へと引っ張ってゆき、諫め始めたのです。
弟子たちにも当時の人々にも、ペトロの行動は当然のものであったでしょう。ペトロ自身は良かれと思って、正しいことをしたつもりでしょう。しかし主イエスは振り返って、サタンと呼び、叱ります。サタンと言う言葉と今日の箇所から特に思い起こすのは、荒れ野の誘惑の出来事です。主イエスは福音を宣べ伝えるお働きを始める前に、荒れ野に留まり、サタンから誘惑を受けられたとあります。サタンから受けられた誘惑の内容をこの福音書は伝えていません。ただ、主イエスのお働きを妨げようとする力であり、その力と主は40日という長い期間対峙し、闘い、退けられ、そうして福音を宣べ伝える旅へと踏み出されたことが示されていました。ペトロの主イエスに対するふるまいの源にあるのは、主イエスが荒れ野で闘ってくださったもの、主のお働きを妨げようとするものであることを思わされます。
「サタン、引き下がれ」との叱責の言葉に、ペトロも、主イエスに見つめられた弟子たちも驚いたことでしょう。ペトロや彼らが思う正しさは、そんなにも主イエスのみ心からかけ離れたものなのかと。人が神さまに期待する救いが、神さまが人に与えてくださる真の救いのからずれてしまっています。ずれているだけでなく、自分こそ正しいと、神さまの救いと競合してしまっています。競合しているそのところで、自分こそ主であるかのように、正しさも権威も力も自分の方が勝っているかのように、主である方を脇へと引きずり出そうとしてしまいます。ここに人の現実が現れています。
主は、ペトロの行為に露わになった“ずれ”が、人が「神さまのことを思わず、人間のことを思っている」ことから生じていることを明らかにされます。神さまに生かされ、神さまに養われ、神さまとの交わりの中で満たされる自分のことではなく、自分のために生き、自分が自分の主であろうとする人、主なる神さまのことを主とせず、神さまに属するものとして生きようとしていない人の歪みです。ペトロだけでなく、誰もが多かれ少なかれ、自分の思いと神さまのみ心との間にずれを抱えています。だからずれた思いが互いに共鳴し、脇道が脇道に見えなくなってしまいます。この人間の現実に主はただお一人で立ち向かわれ、叱ってくださっています。ペトロも弟子たちも群集も呼び寄せて、進むべき道を教えてくださいます。「引き下がれ」と、そして「わたしに従いなさい」と、教えられます。ペトロのような者が先頭に立って進んでも、決して主の十字架には至りません。主はペトロやペトロのような私たちを、自分が思う方向に主を引き寄せようとしていたそのところから、主の後ろへと、主がおられるところへと引き戻し、弟子としてのあり方を取り戻させてくださいます。神の救いとは、苦しみや死、拒絶や屈辱とは真逆のところにあるという枠の中に主イエスを押し込めようとするところから、真の救いを求めるところへと、立ち戻らせてくださいます。
主イエスは今日の箇所でご自分のことを「人の子」と呼んでおられます。旧約聖書に、終わりの時に人の子のようなものが、権威、威光、王権を受けると、そして諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない(ダニエル7:14)と言われています。この「人の子」という呼び方で主はご自身を言い表され、苦しみを受け、死なれ、復活することになっていると予告される主イエスが、天の権威を持つ方であり、再び栄光の内に到来され、裁き、支配される方でもあることを示されます。そのような救い主は、人が期待する救い主の枠を大きく超え出ています。「復活することになっている」と言われる、「なっている」という言葉遣いは、神さまがお決めになっていることを表します。人がどのようなシナリオを思い描こうと、そのシナリオで人が自分たちを救うことはできません。神さまがお遣わしになった救い主が苦しまれ、死なれ、復活されることによらなければ人々を救うことができないと、神さまは御子を与えておられます。主イエスがこのような救い主であることを、人々は今日の箇所でも、この先も、なかなか受け止められません。復活の出来事と聖霊のお働きによって彼らの無理解は初めて克服されます。これから更に人々の歪みや頑なさが露わになってゆくことをご存知でありながら、主は弟子たちのみならず、群衆も、ご自分に従うことへと招きます。「私の後に従いたい」者はと、招きます。主の招きが先ず与えられています。けれど主の招きを知っている、主に出会っている、そのことが自動的に人を主に従う者とするのではありません。主の招きにお応えして主の後に従うと決断することが求められ、決断する人にご自分の後ろを歩むことを求めておられるのです。
主の後に従うことを主は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、そして「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」と、言い換えておられます。これらの教えを別々に受け止めようとすると困惑します。ここで「命」と訳されている言葉は、生命や魂というよりも、人間の存在と生命力全体を支える神さまの命の息を指す言葉です。けれど日々肉体の生命を自分たちで守らねばと必死になっている当時の人々も、私たちも、命を捨てるという言葉に受け入れがたい思いを抱きます。自分を捨て、と言われる言葉にも、神は本当に望んでおられるのかと疑念を抱いたりします。自分の十字架という言葉にも、自分の十字架とは何なのかと迷います。また、主イエスのこれらの教えを、人生の楽しみや物の所有を禁じておられると矮小化したり、拒絶され、苦難を受けることが多ければ多いほど、価値のある生き方だと思い込んでしまうかもしれません。
主が教えられたことを別々のことと受け止めようとすると、主が求めておられることから離れ出て、自分の正しさという脇道に逸れてゆきます。これらの教えは、主に従うということにすべて結びついている、一つのことであります。「わたしのため、また福音のために」という言葉が前提に在ります。この言葉をいつも大切に抱いて、主の教えに生きる道を私たちは求めます。「わたしのため、また福音のために」と言う言葉は言い換えるならば、「キリストによってもたらされた神さまの国のために、神さまのご支配のために」となるでしょう。信仰の目で目的を見つめることが、主の後に歩むために無くてはならないのです。
主の後ろを歩む者は、主イエスと同じ方向に、神さまのご支配に信頼して進みます。そのようにして歩む道中、結果として苦難が伴うことがある、それが私たちの十字架と言えるでしょう。そのようにして歩むために、結果として諦めるものもあります。自分が自分の主であれば執着し、自分で確保しようとするものも、救い主が自分の主であることを深く知り、主にお委ねして進むならば、執着から自由になってゆきます。分岐点で迷う度に、自分のシナリオではなく、神さまのご支配に従う道はどちらであるのか、道を祈り求めます。こうしてもがきながら歩む者は、自分では買い戻すことのできない、自分で確保しておくことができない真の命を救っていただくことになると、主は言われるのです。
ペトロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟は、それまで生計を立てていた舟と網と家族と漁場を後にして主に従いました。レビは収税所の机と職場を後にし、マグダラのマリアを初めとした女性たちはガリラヤでの暮らしを後にしました。自分で獲得したものを溜めていくことができない暮らし、苦労の多い日々は、命を削り取られてゆくようなものだと考えていたそれまでの生き方からすれば 損失としか思えなかったこの道こそ、天からの命に生きることへとつながる主の道であることを、主の後ろを進みながら受け止めていったことでしょう。
彼ら弟子たちだけではありません。自分で自分を喜ばせることよりも、主から与えられる喜びを優先させている人々、困難や労苦が多くても、キリストのために誰かの力になろうと日夜奮闘している人々が、この中にも、私たちの周りにも、大勢いることでしょう。キリストに従う人生を家族や周囲の人々に理解されず、辛い思いを堪えながら、その人々のために祈り続けている人もいることでしょう。
民の指導者たちは、天からのしるしと言いながら、彼らを正当化するしるしを求めましたが、キリスト者は主イエスの名による洗礼によってキリストに属する者とされる、というしるしを与えられています。自分の十字架を追って主イエスの後を歩むというしるしを与えられています。十字架でご自分の命を捨て、三日目に復活してくださった救い主の後ろから、その姿を見つめて歩みながら、この方によって死が生を破壊する力ではなくなったと、生涯も死の後も、私たちの命の源は神さまであると、受け止めてゆく者とされています。