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隔ての壁を越えて

マルコ1:40-45                                               

浅原一泰

 

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい、清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 

 

夏の終わりに三年前に亡くなられた女優の樹木希林さんが主演をつとめた「あん」という映画を見た。桜並木が続く通りの一角にあるどら焼き屋が舞台である。そこの雇われ店長(と言っても店員は誰もいないが)を務める40代の男性が毎日売れもしないどら焼きを焼き続けている。学校帰りに立ち寄ってどら焼きを食べながらおしゃべりする近くの中学校の女子生徒がいるくらいである。桜の花びらが舞うある日、そこに七十代半ばの樹木希林演じる主人公の女性がやってくる。彼女は「アルバイト募集」という張り紙を見て店長に志願するが、年老いた彼女を彼は相手にできず一度は断る。しばらくして彼女がタッパにつめた自作のあんを、「良かったら食べて下さい」と店長に渡す。後でそれを食べた時、あまりのおいしさに店長の目の色が変わり、再び店に現れた彼女に「ぜひうちで働いてください」と店長から頼み込んだ。甘いものが苦手な店長はそれまで手作りのあんなど作れず、業務用のあんをつかっていたからだ。夜明け前からあんの仕込みの為にせっせと働く彼女に触発されて、雇われ店長の意識も変わっていく。そして気づけば、開店前からどらやきを買うために大行列ができるほどその店は繁盛するようになっていた。彼女は大喜びし、店長も信じられないと言った表情でどら焼きを焼き続けては売りまくった。

 

しかし良いことばかりは続かない。ある時から、客は全く来なくなってしまう。来る日も来る日も、近くの中学生以外には一個も売れなくなってしまう。その理由が何なのか、店長はうすうす気づいていた。認めたくなくても認めざるを得なかった。客が来なくなる直前、店のオーナーの妻がやって来てこう言ったからである。「今来ているアルバイトの女性、やめてもらわきゃ」。「その人、指が不自由なんでしょ。」「それを見ていた知り合いが私に言ったのよ。『彼女はらいだ』って」。「あなたは知らないだろうけど、らいは伝染するし、指や手のひらや顔の鼻がもげてなくなってしまう恐ろしい病気よ。」彼女の住所を見せろというオーナーの妻にそれを見せると妻は言った。「これはらいの患者を隔離している療養所の住所よ」。「昔はらいの人が歩いた後は保健所の人や警官が消毒液をまいていったのよ。」「その人が誰かにそのことを話したら、もうこの店はおしまいよ。」

 

オーナーの妻から言われたその時は店長は即答しないでいたが、やがて本当に言いわれた通りになってしまった。待てど暮らせど客は誰一人として来なくなる。一緒に楽しくあんを造りどら焼きを焼いてきた彼女に彼は苦痛の表情を浮かべながら、断腸の思いで「もう、今日はお帰りいただいて結構です」と言う。ずっと差別を受け続けてきた彼女は、その場の空気や相手の表情から何かを読み取るのに敏感だった。すべてを察した彼女がもう店に現れることはなかった。

 

先ほど読まれた聖書はらい病人の癒しの話である。らい病。それが正式な医学名である。ただ、その名前の響きが余りにも人の心に差別感情を呼び起こす(不快語)ために聖書では「重い皮膚病」と訳しなおされ、病名も発見者の名前を取ってハンセン病と言い換えられてきた。しかし名前や呼び方がどう塗り替えられようとも事の本質は変わらない。差別の根底にあるものは変わらない。1996年にらい予防法が廃止されるまでは、らいは強い伝染病として認識された。感染した者は親子であれ兄弟であれ、その縁を断ち切って療養所に隔離されなければならなかった。その別れを悲しみ、病を恨む家族もあったが、中には、らいの家族がいると分かった途端に冷たくあたり、疫病神を追い払うかのように療養所に患者を突き放す家族もあったと聞く。自分たちの家族かららい病患者が出たということが知れてはまずいと判断したからだろう。そういうこともあって、感染した患者が苗字名前を変えることも少なくなかった。病気が進行すると顔かたちが変形してしまって、見た目にはどこの誰だか分からなくなり、ましてや名前も変わったとなれば、自分のアイデンティティというか、生きる意味がどこまでも踏みにじられたかのようにその患者が感じざるを得なかっただろう。

 

「あなたはらいです」と宣告された瞬間、人は何を思うのか。どんな心境に立たされるのか。「死の宣告を受けたような絶望感。」「人生のどん底に落ちたようで幾度も死を決心した。」「人類の外にはみ出した種族のような感情。」「死を決意したが、母の悲しみを思い、出来なかった。」これらの言葉は、らい病を宣告された時の第一印象だったという。がんや原爆症を宣告された患者さんにも似たような傾向が確かに見られたとある本に書かれていた。そのように人間としての誇りをはぎ取られた方々に対し、生きる意味を消し去られてしまった方に対して、どんな言葉をかけられるだろう。その方々の心の救いのためにいったい何が自分にできるというのだろう。「お気の毒に」という言葉がよぎるくらいなのではないだろうか。「自分がああならなかったことに感謝しなければ」という思いさえ沸き起こるかもしれない。そこにはれっきとした「隔ての壁」がある。

 

冒頭に紹介した映画の中で、どら焼き屋の店長がらいを患う女性に尋ねる。「どうしてそんなに美味しいあんが作れるのですか」と。すると彼女は答える「この小豆一粒一粒の声を聞くのよ」と。「これがどこでどうやって育ったのか、どういう風に吹かれ、いつ雨に打たれたのか、その声を聞くのよ」と。あんが出来上がる前、その原料となってあんが出来上がっていくプロセスで影も形もなくなっていく小豆一つ一つにも声がある、思いがある、願いがある、それは店長や当たり前のように生きている健康な人間には聞こえない、らいを患い、隔離され、塀の外へと出ることが許されなかった彼女の耳にしか届かないかすかな叫びであったのではないだろうか。彼女が耳を澄まさなければ聞こえてこないほど、それはそれは小さなうめきであったかもしれない。実はそれと同じことが既に二千年前、イエスとあのらい病人との間で起こっていたことなのではないだろうか。

 

福音書は目に見える形で起こった事しか伝えない。一人のらい病人がイエスのもとにやって来て、私を清くしてくださいと願ったことしか伝えない。ただ、この患者の声もまた、この世の中ではかき消されているような、誰も耳を傾けようとしない、小さな、そして遠ざけられ、見捨てられ、無視されるような叫びでしかなかったのではないだろうか。しかしその患者の叫びを、映画の中で小豆の声を聞いた彼女のようにイエスも聞いたのかもしれない。いや、イエスがそれをしたのは二千年前である。聖書の時代かららい病患者は差別されていた。律法(レビ記13:45)では患者は汚れた者と見なされ、共同体の中に入ることを許されず、うっかり誰かが近寄ってきたら自分から声を出して近寄る者を制止しなければならない、と定められていた。福音書に出てくる患者も嫌と言うほど疎外感を感じ続けてきたことだろう。その彼が律法を破ってまでしてイエスのもとに来てひざまずく。疎外感に打ちひしがれていた彼が自分からそうしたとは思えない。むしろそれは、そのような者をこそイエスが招いていたから、なのではないだろうか。誰よりもまずイエスが、らい病患者の叫びを、小さな者、苦しんでいる者の声に耳を傾けて受け止めようとしておられた、とは言えないだろうか。その患者の「御心ならば、私を清くすることがおできになります」という声、「御心ならば」と切り出すその声はどんなに小さくても、どんなに貧しくても、まさしくそれは彼の切なる「祈り」だったのではないだろうか。この患者を振り向かせようと招いていたイエス、祈らなかった者を祈る者へと招いていたイエスは、だからこそこの患者の叫びを耳を澄ませて聞き取り、その祈りに応えた。この短い物語の中に伝えられているのは、そういう出来事だったのではないだろうか。

 

その直後に、イエスは患者に厳しく注意したと言う。「誰にも、何も話さないように」と。「ただ祭司のところにいって、モーセの定めた献げ物を捧げよ」と。何のためにイエスはこんな注意を施したのか。それは正直、私にはわからない。ただ思うのは、まだこの時点で、神の国は完成していない、訪れてはいるが十分ではない、ということである。そこはまだ、ユダはイエスを裏切り、ペトロを始め弟子たちは皆イエスを見捨てる世界だ、ということである。しかし神の国は始まっていた。マリアが生まれたばかりのイエスを布にくるんで飼い葉おけに寝せた時、やって来た羊飼いたちがそれを見て喜び、神を賛美しながら帰っていったその一連の光景を見て彼女が不思議に思い、思い巡らしていた、とルカは伝えている。「神に出来ないことは何一つない」という、天使ガブリエルが御子を産む前の彼女に告げた言葉を思い巡らしていた、と伝えている。神はこの患者にも、そして我々にも、同じことを求めておられるのではないだろうか。イエスは言われた。「人間にはできないことも、神にはできる。」自分たちの間に隔ての壁を作り、差別感情を煽り立てる人間の現実の只中に、神自らが人間が決して乗り越えられない隔ての壁を超えて肉を取り、人となって下さった。理解されなくても、思い通りにならなくても、何よりも今は、その神の御業を心の中で思い巡らすべき時、信じるべき時だ、ということなのではないだろうか。この出来事を通して、安易に口にすることなくただ信じれば良いのだ、と主イエスは我々に語りかけておられるのではないだろうか。