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裂けた神殿の垂れ幕の先に

マルコによる福音書 15章33~39節

「裂けた神殿の垂れ幕の先に」小倉裕子

 

 闇が全地を覆いました。昼の12時から3時までの間、本来であれば一日で一番日の高い時間帯、まばゆいばかりの光に包まれているであるはずの瞬間に、闇が国中に広がっていました。主イエスは十字架につけられていました。闇の中で、主イエスは苦しまれました。肉体的な苦しみがありました。と同時に、父であるはずの神から見捨てられる、ということが決定的になりました。それは光が全く差し込まない、闇の中で起きていました。

 

 主イエスは、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、と叫ばれます。この、マルコによる福音書において、十字架の上での主イエスのことばとして残されているのは、このひとことだけです。ほかの福音書にはいくつかの、イエスによって発せられた言葉が記録されていますが、この福音書においては、このたったひとことだけが残されています。その、唯一のことばは、神に見捨てられ、完全な孤独が主イエスに訪れた、そのことの衝撃をわたしたちに与えます。

 

 先週まで1か月間、長崎県の佐世保市にある、佐世保東部伝道所というところに、夏期伝道実習に行かせていただきました。2018年に伝道所として設立したばかりで、神学生を受け入れるのは初めての教会です。牧師ファミリー全員で歓迎してくださり、実習と並行して、たくさんの場所に観光に連れて行ってくださいました。その中の一つに、外海(そとめ)という場所がありました。外の海、と書いて、そとめ、と読みますが、その名の通り、東シナ海を望む自然豊かな場所です。世界遺産に登録された潜伏キリシタン関連遺産の一部として注目されています。また、遠藤周作の代表的な作品のひとつである「沈黙」のモデルとなった場所でもあります。

 迫害され、父なる神に祈るけれども、最後まで沈黙しておられた神。主よ、あなたのためにわたしは今、苦しみを味わっております。それをそのままにしておかれるのですか。なぜお答えにならないのですか。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。

  

 わたしたちはいつも、主イエスとの関係の中に置かれ、その大いなる恵みの中にあることを知っています。インマヌエル、主イエスはいつもそばにいてくださる、そのことをわたしたちはいつも感謝しています。それでも、新型コロナウィルス感染拡大とその対応に、疲れを覚えています。また、それだけでなく、わたしたちの人生には日々あらゆる困難が訪れます。途切れずに訪れる理不尽な出来事のなかでわたしたちは叫びます。主よ、なぜこのようなことをお許しになるのですか。主よ、なぜお答えになってくださらないのですか。なぜ沈黙しておられるのですか。

 

 わたしたちは、主イエスに向かって叫びます。けれども、その叫びが、主イエスではない、別の方向に向かっていくことがあります。むしろ、主イエス以外に向かって叫ぶことの方がずっと多いかもしれません。わたしたちは、自分を取り巻く状況、あるいは周りの人たちに責任があるかのように話します。「わたしは悪くないのに」「あの人はこう言ってきた…」「今の状況では仕方がない」と、イエス・キリストのとの関係が目の前に差し出されているにも関わらず、その関係を横に追いやってしまっているのです。

 と同時に、わたしたちがこうしたいと思う方向に、なぜ神はしてくださらないのかとも、叫びます。

 

 主イエスを十字架につけた人々は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉を聞いて、勘違いしました。「エロイ」、つまり「わが神」という言葉を、「エリヤ」と聞き間違えたのです。

 預言者エリヤは天に昇る、という形でこの世を去った人物です。死を経験せず、天に昇ったエリヤが、今にも死にそうなイエスを、もし助けに来るのであれば…、もし、奇跡的な救出が行われるのなら…、つまり、自分たちが考える条件に合うのなら、あのイエスという人物は救い主であるということが確認できるのではないか。彼らはそう考えました。エリヤが来る前に死んでしまったら元も子もない、エリヤが助けに来た時にかろうじてでもいいから生きていられるように、という理由で、気付け薬でもある酸いぶどう酒を、人々は苦しむ目の前の人物に飲ませようとしました。

 わたしたちも、自分が考える範囲の中で起こることを主に期待します。神さまはこのような方であるべきだ、という思いにいつでも支配されているのかもしれません。

 

 神さまのご計画になかで生かされているはずのわたしたちは、神さまのご計画ではなく、自分の計画のなかにその恵みを押し込めようとしてしまいます。わたしたちは主イエスを十字架につけた、まさにその中にいると言えます。それは、主イエスを裏切って、肉体的な苦しみを与えたということだけではありません。神さまを裁こうとする、神さまよりも大きな存在であろうとする、それこそが、十字架の上で起きているのです。

 わたしたちは、何を期待しているのでしょうか。どのようなことに希望を置いているのでしょうか。なにか大いなる言葉が聞こえてくるとか、自分に都合の良い決定的な出来事が起こるとか、そういうことを期待しているのではないでしょうか。だからこそ、期待した通りに神さまが答えてくださらないことに失望します。

 

 主イエスは、ユダヤ人たちによって、また、ピラトによって、十字架につけられました。しかし、自分を十字架につけた人々の責任を問うてはいません。究極の孤独のなかにあっても、神から見捨てられるという極限の闇にあっても、それでもなお、子として父なる神に信頼しているからこそ、わが神、わが神、とその叫びを、他の何ものにでもなく、父なる神に向かって叫ばれました。主イエスは神との関係に、どのような闇の中にあっても、目を向けておられたのです。

 

 この闇の中で、主イエスは、大声を出して息を引き取られました。主なる神が、わたしたちの罪に対する十字架の裁きを、独り子である主イエスに下されました。主イエスは、神の裁きの中を最後まで忠実に歩まれました。

 主イエスが息を引き取られると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂ける、という出来事が起こります。この、「裂ける」という言葉を通して、わたしたちは、この福音書の一番はじめのところの、主イエスが洗礼を受ける場面を思い起こすことができます。主イエスが、洗礼者ヨハネから川で洗礼を受けたときのことです。

 

水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。

 

 天が裂けたのです。そして今、主イエスがその命を終えたときに、神殿の垂れ幕が裂かれたというのです。

 

 神殿というものに、わたしたちは様々な意味を見出します。神殿とは、ユダヤ教における神との約束、つまり古い契約の象徴でもあります。神殿の一番奥に、聖なる場所がありました。そこには、祭司という選ばれた者しか入ることは許されていません。旧約聖書において垂れ幕について説明されている箇所は多くありますが、一つにはこのようにあります。「この垂れ幕はあなたたちに対して聖所と至聖所とを分けるものとなる。」 垂れ幕は、神殿の一番奥にある聖なる場所、つまり聖所にあり、さらにその先の神の栄光が隠れておられる、至聖所と呼ばれる場所を分けるものでした。至聖所には大祭司も、年に一度の贖いの日にしか入ることができません。

 しかし、その聖なる場所を覆うための垂れ幕が、主イエスの死という出来事がおこることによって、ふたつに裂かれたのです。それも、上から下まで真っ二つに。上から、それは、神の側からの大きな力が働いたということを意味します。主イエスの死によって、神と人とを分け隔てるすべてのものが、神の側から取り除かれました。主イエスの死によって、神を隠していた幕が裂かれ、わたしたちは、神と顔を合わせることがゆるされるのです。

 

 御父から捨てられる、という恐ろしい十字架の出来事、その場所で、父と子が、その死によって分かたれました。しかし同時に、父はその独り子を愛し、愛し尽くし、与え尽くしました。その時、神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けました。ここでこそ、父と子がまことにひとつとなりました。

 

 わたしたちは忘れています。もうすでに主なる神は激しく、また、決定的に働いておられます。エリヤが助けに来ることが救いである、という人間の考える小さな、ひと時の救いではなく、本当の救いがもうすでにここで成し遂げられているのです。

 

 神殿の垂れ幕が裂け、隠されていた神の栄光があらわにされました。人間の罪によってそれまで隔てられていた神と人との関係が、取り去られたのです。父と子がひとつになるという、その愛の交わりの中に、わたしたちも入れていただくことが今、ゆるされています。

 死の闇の中に、神の力が大きく働かれ、光が差し込みました。

 

 イエス・キリストが十字架に架かり、わたしたちが自由に神に近づくことができるようになった、だからこそ、今わたしたちは主と共に歩むことができるのです。父なる神は沈黙などしておられません。裂けた神殿の垂れ幕の先から、主の栄光という光がもうすでに差し込んできているのです。

 

 主イエスを十字架につけた、異邦人であるはずの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。彼は、主イエスがそれまで述べてきた言葉を聞いたこともなかったでしょうし、奇跡を見たこともなかったことでしょう。十字架のその時まで、イエスが神の子である、そのように宣言していたのは、父なる神のみです。先ほど、主イエスが洗礼を受けた場面の話をしましたが、その時、天から、「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえたことを、わたしたちは思い出します。

 

 主イエスはその時から、神の国を宣べ伝え、また多くの奇跡を行ってきました。その奇跡の中で何度も登場するのは、目の見えない人が見えるようになる、というしるしです。多くの人々が、物理的に目が見えるようになりました。しかし、ここで、本当の意味で目が開かれるという出来事が起きました。そこに本当の光が、百人隊長に差し込んできたのです。彼はまさに、具体的な働きとして主イエスを十字架に架けた、その罪を負った人物でした。朝9時に十字架にかけ、息を引き取るのを見届けるまで、つまり、死刑を確実に執行するために6時間もの長い間そばにいた人物です。その百人隊長が、信仰を告白をしたのです。

 

 彼は、ただの死刑執行人として側にいる責任があっただけの人物でした。ではなぜ、彼は信仰を告白するに至ったのでしょうか。

 聖書には、その理由が次のように書かれています。「イエスがこのように息を引き取られたのを見て」、本当に、この人は神の子だった、というのです。「このように」とは、具体的には説明されていません。その経緯がここにしっかりと書かれていれば、わたしたちもそれを参考にすればよいのですから、伝道することが簡単だったかもしれません。しかし、残念ながらそうではありません。

 確かにその最後の瞬間、彼は、十字架のそばに、イエスの方を向いて立っていました。目の前の人物は、誰かを恨むような言葉を吐いたり、苦しみを口にすることはありませんでした。それだけでなく、自分を見捨てたはずの神に最後まで頼ろうとしました。彼はそのことを見届けることができる貴重な立場にいました。もしかしたら、彼が目の前で見たものによって心動かされたのかもしれません。しかしやはり、どれだけ探しても、「このように」を説明した部分は特定できません。

 

 けれども、ここで大切なことは、まるで他人事のように、百人隊長がなぜ信仰告白に至ったかということを、丁寧に解き明かすことではないのだと気付きました。わたしたちが受け取りたいのは、この日、この時、主イエスが、わたしたちの罪のために十字架にかかるという決定的な出来事があり、闇の中に光が差し込んだからこそ、わたしたちが今、信仰告白に至った、ということです。大きく働かれた神の力、イエス・キリストがわたしたちの罪のために十字架にかかり、父と子の愛の交わりのその中に招かれた、そのことが先立ってあるからこそ、わたしたちは、神の子イエス・キリストを、自分の救い主とする、その告白に至るのです。主イエスの十字架の死によって、神との間にあった断絶が取り払われるという、その大いなる恵みの中で、信仰に生きることができるのです。ここにおいてわたしたちの努力などは必要とされていません。ただ、その恵みの中に生きるということ、そのことがゆるされていることを、また新しく知らされ、受け取るだけなのです。

 

 

 暗闇は過ぎ去り、主の十字架によってわたしたちは光の子とされました。わたしたちの目は、その恵みによって開かれ、光が差し込み、そうして信仰によって生きる者とされました。その愛を受け取り、そのことに応えながら、今日からまた共に歩んでいきたいと願うのです。