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からし種のように

マルコ42634「からし種のように」

2021711日(左近深恵子)

 先週の月曜日の午後、教会員のHさんが、この世の生涯を終えました。この5年ほど療養のために教会の礼拝に出席することはかないませんでした。共にここで礼拝を捧げられる日が再び来ることを願いながら、主が全ての時を支えてくださいますようにと祈り続けてきました。Hさんの祈りの中にもきっと教会が常にあったことでしょう。死によって生涯の時間に終わりがもたらされても、Hさんの信仰の歩みは消えません。私たちの信仰の歩みも、私たちの死の後、消えることはありません。私たちが互いに覚えていられなくなっても、信仰者の歩みは神さまの眼差しの中に在り続け、神さまによって輝くものとされ続けるのです。

 

Hさんは教会の宣教の業に情熱を注いだ方でした。伝道委員会で大きな働きを担い、教会学校の礼拝やその他の活動を支えました。教会の宣教の業の中へと、他の人々を結び付ける方であり、病や様々な事情で礼拝から離れてしまった人々と繋がり続けることを大切にしていた方でした。情熱の源は礼拝にあったのだと思います。愛用しておられた聖書をご家族に見せていただきました。旧約聖書から新約聖書まで、書き込みが沢山されていました。線が沢山引かれていました。毎晩聖書を23頁読んでおられたと、ご家族から聞きました。み言葉に養われ生かされるHさんの日常は、他の人にみ言葉を届ける情熱と一体であったのだと思わされました。

 

 み言葉を受け、み言葉を届けることは、喜びです。み言葉によって自分が先ず喜びを与えられます。それを伝える時に、み言葉を通して新たな気付きを与えられ、嬉しい驚きを味わいます。伝えた相手とみ言葉の深みを分かち合える喜びも、他では得られないものです。

 

しかし、信仰の言葉を他者に伝えるのは、容易いことではありません。信仰を人に話すことは、全ての人の目の前に空に向かって大きく枝を伸ばし立つ大木を指さして、ほら大きな木でしょうと、木の素晴らしさ、美しさを語るのとは違います。自分が味わっている信仰の喜び、自分の生き方まで変えたみ言葉の力を、ぴったりと表せる言葉がなかなか見つかりません。神さまから素晴らしいプレゼントをいただきながら、その素晴らしさを伝えきれないもどかしさを抱え続けます。自分がいただいている福音と言うプレゼントを、自分が全て理解できているわけではないことが、また言葉を詰まらせます。何とか言葉を絞り出し、伝えたつもりでも、相手にはそれが喜びとなっていないことが見て取れたり、また相手にそう思われるのではないかと思うと、伝えることを恐れてしまうこともあるのではないでしょうか。

 

それでも私たちはみ言葉を届けることを止めません。神さまから福音をいただいていることが嬉しいので、伝えることは容易くないけれど伝えたいと願います。容易くなくて当然です。地上の私たちの用いている言語が、神さまが与えてくださる恵みの本質を全て捉えられるはずはないのですから。そして、福音を他の人に伝えることは、私たちが願うよりも先に、私たちにキリストが与えられた使命です。だから私たちの喜びの大きさや伝えたい熱量を、キリストの使命にお応えするために捧げます。自分の語彙の貧しさにがっかりしても、不十分な理解にめげそうになっても、相手の願ったのとは違う反応に力を落としても、周りの人や時代が求めていないように思えても、キリストの求めにお応えするために福音を伝え続けます。そしてキリストは、福音を届けることを求めるだけでなく、届けようとする者を力づけてくださる方です。今日の箇所は、主イエスからの励ましの言葉とも言えます。

 

 私たちが伝え、届ける福音は、イエス・キリストが宣べ伝えた福音であり、キリストが選び立てられた使徒たち、そして世々の教会を通して受けてきたものです。キリストの福音の核にあったのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ115)というメッセージであり、み言葉は神の国、つまり神さまのご支配の到来を告げ知らせました。

 

主イエスは、地上の言語では言い表しきれない神さまのご支配の本質を、人々が受け留められるように、色々な譬えを用いて語ってくださいました。4章には主が語られた5つの神の国の譬えがあります。その中から先ほど、「成長する種」の譬えと「からし種」の譬えを聞きました。その中で主は「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と言われています。語る前にどうしようかと考えておられます。33節では「(主)イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえでみ言葉を語られた」と記されています。人々の内なる思いを全てご存知である主が、人々を見つめながら、この譬えを語ろうと選び取られています。私たちは、主イエスは神の御子だから、神さまの恵みの本質を何もかもご存知であるから、私たちとは違って迷いも苦労も何もなく、次々と淀みなく語っておられたようなイメージを持つかもしれません。そのように語られた時もあるでしょう。しかし今日の箇所のように、何に譬えたら人々は受け止めることができるだろうかと、語ることに心を砕かれ、あれこれ考えながら言葉を尽くしてくださいました。そのみ言葉を私たちは聞いているのです。

 

 今日の二つのたとえ話は先週の箇所と同じように、植物の成長に神さまの国をたとえています。一つ目は、人が土に種を蒔いた後のことを描きます。種を蒔く人とは、み言葉を他の人に伝える人です。み言葉の種を蒔くと人は、自分が蒔いた種が芽を出すのか、大きく成長するのか、多くの実をつけるのか、案じます。しかし主イエスは、み言葉の種は芽を出して成長し、茎が伸び、穂をつけると約束されます。どのようにして種が成長し、実をつけるのか、蒔いた人は知りません。蒔いた人がそうさせたのでもありません。「土はひとりでに実を結ばせる」と、不思議な表現がされています。「ひとりでに」と訳されている元のギリシア語は、英語の“automatic”(自動的に動く)という言葉の元にもなっているように、“自発的に”“他の力に拠らずに”“ひとりでに”といった意味があります。新約聖書で今日の箇所の他に、使徒言行録の12章にもこの言葉が登場します。ヘロデ王がペトロを捕らえ、投獄していた牢屋の鉄の門が「ひとりでに開いた」箇所です。この「ひとりでに」が今日の「ひとりでに」と同じ言葉です。聖書はこれらの箇所で、種や鉄の門自体が不思議な力を持っていると述べているのではなく、神さまのお力に拠ることを表しています。鉄の門をペトロが必死に押し開けたのではなく、神さまが開いてくださったのであり、み言葉の種を蒔いた人が必死に芽吹かせ、成長させ、実をつけさせるのではなく、神さまがなさるのだと教えられます。成長させ、実らせるのは、聖霊なる神のみ業です。人が神さまからその働きを奪い取ることも、神さまの代わりに行うこともできません。人は自分が蒔いた種がどのように相手にその後語り掛け、神さまを指し示し、新たな気づきを与え、その人の生き方を変え、神さまの元へと立ち帰らせるのか、知ることが無いままです。自分が蒔いた種のその後の成長や実りの豊かさを、蒔いた人が与えられた生涯の時間の中で全て確認できるわけではありません。「収穫の時」「鎌を入れる」という表現は、旧新約聖書においてしばしば終わりの日、主の日のことを指し示します。神さまの国が完成される時です。キリストによって世にもたらされた神さまのご支配が完成される時を示します。私たちの種蒔きの業に、主なる神が必ず実りをもたらしてくださると、それは終わりの時に完成されるのだと、主イエスは約束してくださっているのです。だから私たちは自分の手の業がどれだけの成果を産み出すことができたのか、案ずることなく、安心して種を蒔き続けることができます。

 

 この譬えは、種を蒔く私たちの日々も描きます。26節の「人が土に種を蒔いて」という文は、一回の動作を示します。27節の「夜昼、寝起きしているうちに」という文は、繰り返し行われることを示します。寝起きを繰り返す動作に比べると、み言葉の種蒔きは僅かに見えます。それが私たちの日々であると譬えは表現します。私たちが眠っては目覚め、また眠っては目覚め、それを繰り返している間に、神さまがみ言葉を芽吹かせ、茎をのばさせ、葉を茂らせ、穂をつけさせ、実らせてくださいます。主イエスは私たちに、寝る間も惜しんで種を蒔き続けよとは言われません。寧ろ私たちが寝ている間も、目覚めて日常の生活を営んでいる間も、働き続けておられる主に委ねることを教えてくださっているのではないでしょうか。誰かにみ言葉の種を蒔いたら、思い煩いが内側に湧き起こっても、自分が成長させられると思ったり、成長させなければと思っても、後は神さまに委ねて、休息を取り、不安に駆られてではなく、安心して目覚める在り方を、教えておられます。

 

 次のたとえ話は、神さまのご支配を「からし種」に譬えます。主イエスが言われる「からし」の種はおそらく12mmほどのものだと思われます。それは「地上のどんな種よりも小さい」と、その小ささを強調されます。そのように小さなみ言葉が人によって蒔かれて、神さまのお力によってどんな野菜よりもどんどん成長し、葉の陰に空の鳥が巣を作りに集まってくるほど大きな枝を張り、立派で頼もしく成長すると言われます。同じたとえがマタイとルカにも記されています。マルコとマタイでは成長したからしが「野菜」と言われていますが、ルカでは「木」と言われています。「木」という言葉は、成長後の大きさをしっかり伝えています。対して「野菜」という言葉は、からしが野菜の一つであるという事実に沿っています。「野菜」と言う言葉から、何十年も生きるような植物ではなく、一年草や多年草の植物を思い浮かべます。だからこそ次々と種を蒔こうと思わされます。一回誰かにみ言葉の種を蒔いたら、後は何もすることは無いと、ただ寝たり目覚めたりしているだけではありません。私たちには成長させる力はありません。しかしみ言葉を蒔くことはできます。何度でも、何人にでも蒔くことができます。蒔いては神さまの元に帰り、私たち自身が新たにみ言葉に養われ、安らいで眠り、十分な休息を取ったらまた神さまのところから種蒔きへと出て行く、そうやって種を蒔き続けることができるのです。

 

 神さまの国は、終わりの時に完成されると約束されています。そしてまた、種蒔かれた土地で、既に成長していることも主は教えておられます。私たちの中で蒔かれた種を神さまが成長させてくださってきたように、私たちが蒔いてきた種も、私たちが知らないところで、神さまが成長させてくださっています。神さまの国は、死後の世界や空想の世界のことではありません。私たちが日常の中で経験することの中に、そのご支配を見出すことができます。礼拝の度に、天の真の故郷を映し出す、神さまのご支配の内に憩い、信仰の旅路に必要な休息と養いをみ言葉を通して与えられながら、私たちは歩む者とされています。

 

 

自分の祈りが、自分の発した言葉が、自分のしてきたことが、神さまからいただいているもののほんの僅かしか表現できていないことを知る私たちです。その貧しさ、小ささ、見栄えの悪さに、悲しみを感じることもあります。教会の規模の小ささや活動のささやかさに引け目を覚えることもあるかもしれません。けれど私たちの言動が、教会の業が、神さまのご支配を指し示し。キリストによってもたらされている罪の赦しと神さまの祝福を届けるものであるならば、それはキリストから受けたみ言葉の種です。私たちがこの世で尊重される物差しをそれらに当てて、小さいと、みすぼらしいと恥じたり、軽んじたり、嘆いたりして良いものではありません。大きいこと、大規模で立派なことを誇ることも、逆に自分たちの小ささを誇ることも、福音からかけ離れたこの世の物差しです。受けた恵みに少しでもふさわしく種蒔きを主に捧げるために力を尽くし、これまでそうであったように今も、この先も、私たちが蒔いた種を主が育ててくださることに心から信頼して、私たちの種蒔きを主のみ前に捧げてゆきたいと願います。