2021.5.30.主日礼拝説教
エゼキエル37;1-6、ヨハネ14;1-6
「イエスの道」(浅原一泰)
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
心を騒がせるな、神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうして、その道を知ることができましょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
新型コロナウイルスに感染したために命を落とした方々はすでに世界で350万人を越えた。日本でも、コロナの犠牲者は13000人に達しようとしている。ウイルスは変異して感染力を強めていることが明らかになっている以上、その数はこれからも増え続けることは間違いない。ただ、一方でこういう見方をする人もいるかもしれない。70年以上前、あの第二次世界大戦で犠牲となった人の数は世界で8000万か8500万、日本の犠牲者は約310万人とも言われているが、まだそれに比べれば痛みは大きくないではないか、ワクチンの接種も進んでいるし、じきに感染の勢いは収まるだろう、と。そんな楽観的な受け止め方もあるのかもしれない。
ならば一刻も早くワクチンを打ってもらいたい、と誰もが思うのは当然である。しかし現実には世界の中で日本はワクチン接種が遅れている。日本の中でも高齢者に対するワクチン接種がかなり進んでいるのは和歌山県だそうだが、割り当てられた分量のワクチンをとにかく迅速に手あたり次第打っているだけだと昨日テレビで和歌山県知事が話していた。その表情にはどこか誇らしげな様子がうかがえた。それを見て、和歌山県の人は羨ましいと思った人は確かにいたと思う。
しかしどうなのだろう。そう思うのは正しい判断なのだろうか。視聴者にそう思わせるように番組が作られているとしたら、他者を羨ましいと思う前に立ち止まる必要はないのだろうか。また、第二次大戦よりも遥かに犠牲者の数が少ないというだけで安心してよい、ということになるのだろうか。人の命の重みは計り知れない。死者が多いか少ないかで我々が感じる痛みに差が出てしまうというのも、情報に踊らされ、我々がそれに慣れて来てしまっているからなのではないだろうか。慣れというのは恐ろしい。現実に一年以上前、コロナの為に志村けんさんなどの有名人が亡くなった時の方が、たとえば連日100人近くが犠牲となっている今よりもはるかに驚き、恐れを感じたのは私だけではないと思う。世論然り、政治家然り、マスコミ然り、そして我々自身然り。人間による善悪の判断ほどあいまいで、無責任で、コロコロと変わりやすいものはない。しかし聖書は言う。それは初めの人間アダムが、食べてはならない、食べたら死んでしまうと神に命じられていた善悪の知識の木の実を食べたからだと。食べても死なない、食べれば神になれる、という蛇の甘い言葉に踊らされたからなのだと。それによって人間はすべて、確かに見た目には死んでいなくても、ゆがんだ善悪の知識を身に着けてしまい、己を神の如くにたかぶらせて他者を容赦なく裁き、自分だけはしゃあしゃあと言い逃れをするような生き物になってしまったのだと。先ほど読まれたエゼキエル書の、ある谷に大量の枯れた骨が散らばっているという光景は、神に背き続けた為に国が滅び、バビロンに強制連行された当時のイスラエルの民や戦争やコロナの犠牲者たちだけのことではない。神に背いて自分を神の如くに祭り上げているアダムのような人間しかいないこの世、まさに人類すべてが枯れた骨となってしまっているこの世が、エゼキエルにはそのように見えたのだと思う。そして今、一年以上も続く自粛生活に慣れてしまって、犠牲者が増えても次第に何も感じなくなりつつある我々こそが「枯れた骨」となってしまっていることを神は気づかせようとしておられるのではないだろうか。その上で神はこの礼拝において我らにこう語りかけておられるのではないだろうか。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」
ゆがんだ善悪の知識をもって自分が神であるかのように思い上がってしまう生き方。神に背いたアダムが己の罪を認められずにそれはエバが悪いと責任を他者に擦り付け、あらゆる言い訳を並べ立てて自分を正当化して言い逃れしようとする生き方。それは神が与えたかけがえのない命を踏みにじる生き方であり、命を腐らせ、枯れた骨に変えてしまう悪しき道だと思う。その道へとサタンは人類を、私たち全てを引きずり込んでいる。この世のすべて、我々人類すべてを己の支配下に置こうとサタンは手を変え品を変えて計画を着々と実行している。それに対して私たち人間はあまりにも無力である。それではいけないと分かっていても、どんなに取り繕おうとしても結局はどこかで人を裁き、言い訳でもって自分を正当化し続けている。「あの人は違う」という人を知っておられるかもしれない。「自分だけは違う」と思っている人もいるかもしれない。しかしそれは人に知られていないだけかもしれない。自分が気づいていないだけかもしれない。人の心の奥底まですべてを見通しておられる神の眼差しの下では、誰もがアダムの罪を繰り返しており、枯れた骨のままなのだと思う。「そうあってはならない」という禁止の命令や律法は我々を止めることができない。だからこそ神は我々すべてをサタンの思惑から取り戻そうとされる。エゼキエルの言った通り、枯れた骨を生き返らせようとされる。そのために神が人となったのである。人間の姿形となった神イエスが実際にこの悪しき道を歩まれたのである。アダムが経験したものとは比べ物にならないほどの用意周到な執拗なる誘惑をイエス自らが荒れ野で受け止められたのである。そこまで神の御子イエスは身を低くして我々と同じ土俵に立たれた。そして、誰もが「神になれる」と思い上がっている世のただ中で、イエスだけは「お前は神の子だ」「神にしてやる」と持ち上げる悪魔の誘惑を見事に跳ね返し、「主を拝み、主にのみ仕えよ」という生き方を貫いた。「善い先生」と近づいてくる金持ちの青年に対しては「なぜ私を『善い』などと言うのか。『善い方』は神おひとりである」(マルコ10:17-18)とここでも誘惑をはねのける。「生きるか死ぬか」の分かれ道に立たされようものなら、下手に善悪の知識を持ってしまったアダムの末裔である我らはみな心の中で、生き延びるための手段方策を思い煩い始めるのだろうが、イエスだけはゲッセマネで杯が差し出された時、「御心ならば取り除け給え」と神に委ねることを決して忘れなかった。それは神と真剣に向き合い、神にのみ仕えていた者にしか味わえない躊躇いであった。死の力がすさまじく猛威を振るうゴルゴタにおいても、誰もが簡単に諦め、絶望せざるを得ないような限界的な状況のただ中でイエスは、そこでも神をひたすら信じ、真剣に神と向き合っていたからこそ「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と、「わが神、わが神、なぜ我を見捨て給うや」と祈られた。ペトロやユダが身の危険を感じたり欲に目が眩んで、わが身可愛さあまりにご自分を裏切ることも見抜いていたのに、イエスだけは生き延びようと画策することなく、前もって防御線を張ることもなく、最後の最後まで、息を引き取る間際まで一切を神に委ねられた。最後まで神と真剣に向き合われた。しかし神はなんとこのイエスに、本来ならば怒りの裁きを受けるべき我ら罪人すべての身代わりとして十字架の死を負わせた、と聖書は告げるのである。言い換えるならば神は、すべての人間の身代わりとして罪なきイエスを枯れた骨にしたのである。しかも、誰もかれもが枯れた骨と化してしまっているこの世において、人となった神イエス自らが率先して「枯れた骨」となり、中でも全ての罪を背負わされたが故にもっともみすぼらしく、見るも無残な「枯れた骨」となられたのである。それが「イエスの道」であった。自分の満足のためにあるのがアダムの悪しき道であるならば、徹頭徹尾われわれのために歩まれたのがイエスの道であった。それはイエスによって、どこまでも人間と共にいようとされる神の道でもあった。そして神は、従順を貫き通しながらも見るも無残な枯れた骨となったこのイエスをよみがえらせたのである。
神がイエスを死からよみがえらせたのは、「枯れた骨」となっている我らを生き返らせるためである。眠り呆けていた我らを目覚めさせるためである。神の如くに思い上がったまま、見た目のそぶりだけ悔い改めれば済むとゆがんだ善悪の知識で判断している我ら、神に委ねきれずに悪しき道を辿っている我らをイエスと共に死なせ、新しい命へ、互いに助け合い愛し合う神の国の民へと生まれ変わらせるためである。イエスの道はそこまで続いている。だからイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたのである。わが身可愛さに神を信じ切れず、委ねきれずに「枯れた骨」のままでいた弟子たちに言われたように今、イエスは私たちにも語りかけておられる。「心を騒がせるな、神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と。そうしてこの方は、枯れた骨のままである我々に歩み寄って来られる。我々の只中に宿って下さる。そうしてイエス自らが最も無残な枯れた骨となって下さる。我々の為にそこからよみがえってくださる。この方こそが主であるのだと気づかせて下さる。その信仰を主によって強められたい。聖霊という息吹を吹きかけられて、ご一緒に立ち上がらされたい。