「み心ならば」マルコ1:40~45
2021年5月16日(左近深恵子)
ガリラヤのナザレで大人になるまで過ごされた主イエスは、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたヨハネのもとに行き、人々と同じようにヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。罪の赦しを願う他の人々と同じように、罪の無い神のみ子が、罪に汚れた者であるかのように水の中に身を沈めてくださいました。その後、霊に導かれて荒れ野へとゆかれ、荒れ野の厳しい現実とサタンがもたらす試練の只中に40日間身を置き続けられました。人が住むための場所ではない荒れ野で、肉体をもって生きるからこそ味わう様々な試練に長期間身をさらされました。サタンは、主イエスを父なる神とそのみ言葉にではなくサタンに従わせようと誘惑したことが、他の福音書に記されています。荒れ野での厳しい日々の間、たったお一人で試練や誘惑と対峙されていましたが、天使たちが主に仕えていたとも記されています。常に天の父なる神の支えが主と共にありました。主イエスは、祈りをもって試練や誘惑と渡り合っておられたとも言えるでしょう。こうして、罪の赦しを得るための洗礼を人々と共に受けられ、人々が生きていく上で味わう様々な試練を受けられ、更に救い主としてのお働きを揺さぶろうとする誘惑の中で、進むべき道を見定められたのです。
荒野からガリラヤに戻られた主は、いよいよ福音を宣べ伝え始めます。「神さまの時が満ち、機は熟した」と、「神さまの国、神さまのご支配が近づいている」と、語り始められました。湖で漁をしたり網の手入れをしていた4人の者に呼びかけ、弟子にもされました。そして、安息日の礼拝で語られることを中心に、神さまのご支配の到来を宣べ伝えられました。マルコによる福音書の第1章を追っていくと、主イエスの目まぐるしい日々が浮かび上がってきます。カファルナウムでの最初の安息日に会堂で語られ、そこで汚れた霊に取りつかれていた人から霊を追い出されます。礼拝の後、弟子のシモンとアンデレの家に行かれ、そこで高熱を出していたシモンのしゅうとめを癒されます。夕方になるとその日起こった癒しを聞きつけた町の人々がその家に押しかけてきて、主イエスは大勢の人を癒やしたり、悪霊を追い出されました。次の朝早くに、まだ暗いうちに人里離れた所に行かれて祈りの時を持ちます。しかし後を追ってきた弟子たちから、町中の人がご自分を探していると聞き、「他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教をする。そのために私は出て来たのである」(1:38)と言われて、カファルナウムを後にされます。その後も、ゆく先々で人々を癒され、そのことを聞きつけた大勢の人がやって来て、他の町や村に福音を伝えるためにそこを離れる、ということを繰り返されながら、ガリラヤ中の会堂で福音を宣べ伝えられました。
ある日、重い皮膚病を患っている人が主イエスの所にやって来ました。皆さんがお持ちの聖書によっては、「重い皮膚病」ではなく「らい病」となっているかもしれません。「らい病」は今日の「ハンセン病」の呼び方です。新共同訳聖書は、以前は「らい病」と訳していましたが、その後「重い皮膚病」に改めました。「らい病」と訳されてきた聖書の元の言葉の意味が明らかではないからです。何らかの皮膚病を指すものの、いかなる病気であったのかは明瞭でないので、特定の病名ではなくこのように変えたのでしょう。ハンセン病に対して差別があった歴史も忘れてはならないでしょう。また新共同訳が「皮膚病」とするのではなく、「重い皮膚病」と訳したことで、聖書が示す病の重さや、そのような病を抱えて生きる日々の困難さが伝わってくるようです。更に新しい翻訳である聖書協会共同訳は、この言葉を「既定の病」と訳しています。レビ記で祭儀的に汚れていると規定されている病であることを示す訳です。「重い皮膚病」は、神の民にとって、医学的な観点から見た病であるよりも寧ろ、汚れていると律法に規定されている病でありました。この日主イエスを訪ねてきた人も、律法で汚れているとされていました。だからこの人は主イエスに、癒してもらうことではなく、清くしてもらうことを求めました。病による苦しみだけでなく、病によって汚れている者となっていること、その自分が病を抱えていることに、苦しんでいたのでしょう。
「重い皮膚病」についての規定が記されているのは、レビ記第13~14章です。それによりますと、この病を発症した人は、衣服を引き裂き、髪をほどいて垂らし、口ひげを覆って、「わたしは汚れている、汚れている」と叫ばねばならないとされています。その人の病を知らずに誰かが誤って近づき、その人に触れてしまったら、触れた人も汚れを負うとされています。またこの病に罹っている人は、宿営の外で、独り離れて住まねばならないとされています。現代においてもなお感染症の対策は隔離が第一であるように、感染する恐れがある病から一人一人を守り、共同体を守るという理由も、そこにはあったことでしょう。
人々から離れていなければならないとされているのに、この日この人は主イエスの所にやって来ました。人と会ったら発するべきなのは「私は汚れている」という叫びであるのに、「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。
この人はこの病に罹って以来、相手を自分から離れさせるため、相手と自分の間に隔たりを作るために、「私は汚れている」としか言えずにきたことでしょう。相手と近しくなるための言葉、親しくなり、相手と人格的な関係を築くための言葉を発することができずにきたことでしょう。この病は、「死人を生き返らせることと同様、癒すことは困難」と言われていました。自力で病から回復することなどできない。誰かに癒してもらうことも期待できない現実の中で、「汚れている」と叫ぶ度に苦しくなったのではないでしょうか。清くなることを望むことなどできない自分が、清くないのだと、汚れているのだと口に出して言う度に、絶望や孤独、虚しさを覚えたのではないでしょうか。
そんなある日、この人は主イエスの評判を耳にしたのでしょう。主イエスならば自分を清くすることがおできになると、望みを持つようになりました。希望はこの人に力を与えました。主イエスの特別なお働きは、神さまからのものであると知ったのでしょう。主イエスにならば、自分が汚れているということ以上のことを話せる、主イエスならば、自分をご自分との関係の中に置いてくださり、自分の言葉に耳を傾けてくださると信じ、立ち上がり、主イエスの所へと向かいました。マルコによる福音書はこの人の行動を、「来た、願った、跪いた、言った」と、一つ一つ記していきます。それまで成し得なかったこれらのことを一つ一つ為していく足取りと、その歩みを支える信頼と言う土台が、伝わってきます。
この人は「み心ならば」と主イエスに言います。文字通りに訳せば「もし、あなたが願うなら」という言葉です。人々の病が癒され、汚れが清められることが神のみ心であろうと私たちは思います。この人もそう思っていたことでしょう。だから清められることを求めて、願いを注ぎ出します。しかしまたこの人は、最後に決定するのは自分ではなく神さまであり、神さまが遣わされた主イエスであることも知っています。主イエスは自分や他の人々の依頼を受けて、その願いを実現する方では無く、自由の内にお働きになる方であることを知っています。この主イエスのお働きへの全幅の信頼を表明し、主イエスのみ心とお力に自分の全てを委ねています。
主はこの人を深く憐れみ、その人に触れて、「よろしい、清くなれ」と言われます。すると病は去り、その人は清くなります。「深く憐れんで」とは、ご自分の内臓を痛めるような憐れみを意味します。この人の苦しみを、ご自分の内臓がよじれるようにして、ご自分の苦しみ悲しみとされました。病による苦痛だけではなく、隣人とも神さまとも生き生きとした関係を結ぶことができない苦しみ、汚れた状態から救われることを望めない悲惨さを、主が味わってくださいました。人の内側を全て知っておられるキリストは、その人以上に、この苦しみと悲惨を味わわれたのではないでしょうか。
それから主はこの人に、祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために捧げて、人々に証明しなさいと命じられます。レビ記14章に記されている、症状が消えた場合の規定に則って、清められたことを証明するように促されます。レビ記がこの規定も含め、11~16章で求めているのは、聖なる神さまに仕える人々として、イスラエルの民が備えることです。神さまは、人が決して辿り着くことができない聖さを持つ方です。この神さまの民として生き、神さまのみ前に出て礼拝を捧げるために、人々の汚れが清められることを求めます。主イエスがこの人に清められたことを証明するように促されるのは、この人が何よりも共同体の礼拝に復帰し、神さまとの人格的な交わりの内に生きること、隣人との信仰生活の中で生きることを、願われたからです。
主イエスはこの人に、誰にも話さないようにとも命じられました。しかしこの人は喜びのあまり言い広めてしまいます。そうすることが、主イエスに対する感謝を表すことになると思ったのかもしれませんが、結果、主の特別なお力を求める人々が押し寄せて、主イエスはその町で福音を宣べ伝えることがそれ以上できなくなってしまいます。奇跡を行う者を人々は求めるものです。人々は主イエスのお働きの外側の出来事にばかり目を向け、その出来事が、「時は満ち、神の国は近づいた」と告げられる福音を示すものであることには目を向けようとしないことを、主イエスは知っておられます。人々が、出来事が指し示す恵みに目を向けられるようになるのは、十字架と復活の後です。主はご自分の癒す力を称賛されることよりも、福音に耳を傾けること、十字架と復活の恵みを知ろうとすることを望まれ、押し寄せる人々によってお働きが妨げられることなく福音を宣べ伝えることを望んでおられるから、今は何も話さないようにと言われたのでありましょう。
人となられた主イエスは、荒れ野で、ご生涯を通して、私たちが味わう苦しみ悲しみを共にしてくださいました。病を負う辛さ、肉体の健やかさが損なわれる痛みを、水も食べ物も無い日差しが照り付ける荒れ野で、共にしてくださいました。それ以上に悲惨な、隣人からも神さまからも遠い人の現実を、汚れから清められることが望めない無力な人の現実を知り抜いてくださいました。主は癒しを、大勢の人を集めたり、評判を高めるための手段にされません。福音を宣べ伝えることを差し置いて、癒しをお働きの中心に据えることもされません。一人一人が神さまの元へと立ち戻り、神さまの民に復帰することを願って、礼拝で福音を宣べ伝えることが、全てのお働きの中心にあります。一人一人を、聖なる神さまの聖さに与る者とするために、ご自分の命によって人々の罪を贖うために、十字架へと歩み続けられます。私たちのために命を捧げてくださったこのキリストによって、私たちは絶望ではなく感謝の内に、自分が罪に汚れた者であることを告白することができます。神さまの元へと立ち戻ることを願って招いてくださるキリストによって、礼拝において神さまの元で心から安らぐことができます。そして大切な誰かのために、その人の救いと癒しのために、主のみ前にひざまずき、「み心ならば」と祈ることができるのです。