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天と地が結ばれ

マルコ1913「天と地が結ばれ」

2021418日(左近深恵子)

マルコによる福音書はその始まりにおいて、この文書はキリストの福音を語るものだと、ここから福音が始まるのだと告げます。福音を語る福音書なので、キリストと言う一人の偉人の伝記に留まるものではありません。旧約聖書に記されたイスラエルという民のその後の歴史を伝える歴史書に終わるものでもありません。キリストによって神さまが実現されたことを伝えるものです。実現されたことは今も私たちと共にあり、終わりの時に完成されると伝えるものです。だからこれは私たちにとって喜びの音信(ずれ)なのだと、これは福音なのだと告げます。 

 

そうして福音書は先ず洗礼を宣べ伝えます。洗礼を授けたヨハネのことを語ります。旧約聖書で告げられてきた約束が自分の後に来られる方によってもたらされると告げ、キリストに先立って人々にその方をお迎えする備えをさせたヨハネの働きが、福音の始まりにあることを伝えます。

 

ヨハネは罪の赦しを神さまからいただくために神さまのもとに立ち戻るようにと、荒れ野で人々に語りかけます。立ち戻る決断をし、洗礼を受けるようにと呼びかけます。福音書に耳を傾ける私たちも、ヨハネの前に押し出され、ヨハネのところに集まって来た群衆と共にその言葉を聞いているような思いがします。ヨハネはキリストのことを語ります。マルコによる福音書がこの箇所で伝えているヨハネが語った言葉は、キリストのことばかりです。キリストがいかに自分と異なる方であるか、キリストがもたらしてくださるものは、いかに自分がしていることを超えるものであるかを語っています。ヨハネは日々、言葉と思いと力を尽くして宣べ伝え、最後には命まで犠牲にして働きを全うしました。自分の生き方の中へと人々を導き入れるためではなく、主の道を指し示すためでした。自分の後に、自分が授けている水による洗礼とは異なる、聖霊による洗礼をあなたたちにもたらしてくださる方が来られると、あなたがたも私と一緒にその方にお会いする備えをしよう、洗礼を受け、この神さまに至る道に一緒に立とうと呼び掛けていたのでした。

 

キリストをお迎えする備えをさせるために神さまが立てられたヨハネは、自分の後に神さまが遣わされる方は、自分よりも優れた方、自分にはかがんでその方の履物のひもを解く値打ちも無い方だと言い表します。その方を待ち望む私たちに、福音書はその方を示します。私たちが誰も予想していなかった仕方でキリストは登場されます。その方はヨハネから洗礼を受けようと集まってきていた人々の中におられると、ヨルダン川のほとりで、人々に混じって、洗礼を受ける順番を待っておられると、キリストがおられるところを指し示すのです。

 

私たちが天に抱いているイメージを体現するようなものは、そこにありません。立派な姿や、人並外れた力を発揮する出来事によって、キリストは登場しておられません。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(19)という一文によって、私たちはこの福音書で初めてキリストにお会いします。「イエスはガリラヤのナザレから来て」という言葉から、神のみ子である方が、イエスという名前を持つ一人の人間となられて、家族や他の人々との関わりの中で生きてこられた人生を思わされます。それも「ナザレ」と言う、聖書の他の個所で「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ146)と言われるような地域で、その年月を重ねてこられたことを、主イエスは人々がそこから神の救いのみ業が起こるとは誰も期待も注目もしてこなかった地域で生きて来られたことを思わされます。そのところから主イエスが救いのみ業を為すために最初に目指されたのは、洗礼が宣べ伝えられていた場でありました。悔い改めの必要など無い神のみ子が、悔い改めの洗礼を受けるために来られました。ヨハネが授けていた洗礼には、拭い去れない罪を滅ぼすために水の中に頭まで浸かって、罪を滅ぼそうとする、強い意味が込められています。罪に絡みつかれている人間の実態を知り、その人々に神さまからの赦しを何としても得させようとするヨハネの激しい思いが込められています。どんなに立派な人間でも、どんなに大きな力を持つ権力者でも、自分の罪を自分で洗い流すことができない、その罪人たちに赦しをもたらす救い主が、罪人たちと同じところに身を置いてくださいました。神のみ子の方から洗礼の場にやってこられました。神さましか赦すことのできない罪の赦しを全ての人にもたらすために、他の人々と同様に川の水に全身を沈めてくださいました。

 

主イエスがヨハネから洗礼を受けられ、水の中から上がられるとすぐ、天が裂け、“霊”が鳩のようにご自分に降ってくるのをご覧になり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。マルコによる福音書は、天が裂け、霊が降られ、天からの声があったことを、主イエスの視点によって伝えています。他の人々に見えたかどうか、聞こえたかどうかにではなく、主イエスに起きた重要なこととして伝えます。地に生きる人々のための天からの救いが、天らしさが人の目には何も見出だせないようなところで、人々と全く同じような一人の方において起きている、そのことをその方ははっきりと見つめておられる、この出来事が天からもたらされている神の霊のお働きによるものだと、父なる神が喜んでおられる天の出来事であるのだと、子なる神は見て、聞いておられることを伝えています。

 

天が裂けて、霊が降られました。天が裂けるという言葉も、激しい表現です。私たちが人間やその他世の力を最も頼みとすることによって神さまに信頼する心が小さくなってゆく、神さまの方に全身を向けようとしなくなる、しばしば背まで向けてしまう、そのような誰もが身に覚えのある背きによって、私たちは神さまとのつながりを自ら閉ざしてしまい、遠いものとしてしまいます。自分が望む時には天と地を結びたいと、天を開いて神さまの恵みを得たいと願っても、私たちが天に手を伸ばし、手を届かせることも、天の扉をこじ開けることもできません。祈り願うだけです。けれど主イエスが洗礼を受けられた時、神さまが天を開いてくださり、神さまの霊が降ってくださいました。喜びの言葉で主イエスの洗礼を、福音の御業の始まりを包んでくださいました。地に降られ人となられた神のみ子において、天からの喜びが地にもたらされたのです。

 

洗礼を受けられて直ぐに、神さまの霊は主イエスを荒れ野へと導きます。そこでサタンから誘惑を受けられます。主イエスのそばには野獣もいます。サタンからの誘惑にさらされていただけでなく、人を襲う野獣の危険も常にあります。そのようなところに主イエスは留まり続けたと伝えます。40で表される期間は、聖書において長い時間を表します。特に救いのみ業において新しい局面へと開かれていくその転換の時として登場します。4040夜、主イエスは福音の御業のために危機的な状況の中に身を置き続け、戦い続けられたのです。

 

この出来事についてマルコによる福音書は、主イエスがどのような誘惑を受けられたのか、どのように誘惑を退けられたのかにではなく、主イエスがその中に留まり続けたことに焦点を当てて伝えます。洗礼を受けて直ぐにガリラヤの町や村を巡って福音を宣べ伝え始めたのではなく、その前にこのような試練の時があったことを、マタイやルカ福音書も伝えます。主イエスの試練はこの時だけで終わりません。十字架に至るまで、苦しみは増す一方であったとも言えます。荒れ野で徹底的に誘惑と向き合われることによって、福音を宣べ伝えるご生涯の備えを為されたとも言えるでしょう。主イエスが、サタンに付け入れられる弱さを抱えておられたから、訓練の時が必要であったのではありません。ここにおいても罪に囚われた人々の中に身を投じられる神の姿があります。私たちの信仰の歩みに試練は避けられませんが、洗礼を受けた直ぐ後にこそ大きな壁に突き当たることがあるということに、憶えがあるのではないでしょうか。自分が思い描いていた信仰生活のようにはいかない自分の現実があります。教会のメンバーの一人となると教会の中に見えてくる問題があります。社会の中の一人として今までは見えない振りをし、後回しにしてきたことに、信仰者として向き合うことに苦しみ、罪の赦しの意味を自分自身のこととして問い直し、信仰が揺さぶられるような思いも、私たちは味わうのではないでしょうか。この荒れ野のような時を、永遠に続くのではないかと思うような試練の日々を、人が生きていくことがとても難しい荒れ野で、主イエスはお一人で来る日も来る日も耐えられました。お一人ではあるけれど、天使と共に戦われました。神さまのお力を支えとし、神さまに祈りながら、その戦いを耐え抜かれたのです。

 

神の子救い主によってもたらされた福音のはじまりは、私たちの予想や期待からかけ離れた事柄に溢れています。輝くような、圧倒するような、華やかで壮大な事柄こそ、私たちを救う力だと、そのようなものを求める私たちには意外なことに見えてしまいますが、キリストは、罪人の所にまで降りてきてくださり、私たちの罪を、そこから生じる様々な苦しみ悲しみ歪みを、ご自分の身に負ってくださるために、罪人たちの列の中に加わり、洗礼の水の中に低く降る者となってくださいました。この主イエスの洗礼こそ、これ以降の主のお働きを示すものです。罪の中で生きている人々の中へと入られ、罪を滅ぼすために深みへと身を投げ出されたご生涯は、十字架において命を捧げることへと向かっていきます。最後の過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに入られる少し前、互いに誰が一番偉いかと揉める弟子たちに主はこう言われています、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(1038)。人々の罪の値を代わりに払うために、罪の支配から人々を贖い出すために、苦しみを受けられご自分の命を十字架に捧げることを、洗礼を受けると言われます。罪の裁きの中へと身を投げ出し、死者の中にまで降られ、罪を滅ぼしてくださったご生涯によって、ヨハネがその始まりを担った福音は成し遂げられたのです。

 

 

天が裂けた、そう言い表した言葉も、主イエスの十字架の場面で再び用いられ、福音の出来事の初めと主の死をつなぎます。主が息を引き取られた時に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(1538)と述べられているところです。このように息を引き取られたのを見た百人隊長が、主イエスがどのような方であるのか知ることができ、「本当に、この人は神の子だった」と告白することができたそのところで、神さまが臨在される至聖所と神殿のその他の部屋を分ける分厚い垂れ幕が裂けたことを伝えます。イエス・キリストの命によって、神さまに至る道、天に至る道が切り開かれたそのところです。福音の御業の始まりにおいて、そして死において、私たちの罪によって閉ざされてきた開かれるはずのない扉、私たちには越えることのできない隔ての壁を、神さまが裂いてくださり、切り開いてくださいました。聖霊を受けて誕生した教会において、主イエスが授ける聖霊による洗礼に私たちも与り、神の子とされることができるようにしてくださいました。キリストが道なきところに通してくださった道を、荒れ野のような日々にあっても、主と共にここからまた歩み出しましょう。