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主の道

マルコ118「主の道」

2021411日(左近深恵子)

 

 新約聖書には福音書が四つあります。どの福音書も、主イエスの活動を洗礼者ヨハネから語り始めます。マタイ、ルカ、ヨハネ福音書はヨハネについて記す前に先ず記していることがあります。例えばマタイによる福音書は、アブラハムから主イエスに至る特別な系図によって主イエスの位置を示すことで物語を始めます。ルカによる福音書は、具体的な歴史の現実の中の主イエスの位置を示すことで物語を始めます。ヨハネによる福音書は独特な形で語り始めます。四つの福音書の中で最も古いマルコによる福音書は、洗礼者ヨハネのことから始めます。ヨハネの後から来られる方としての主イエスの位置を示すことで、語り始めます。ヨハネの告げた言葉やヨハネの活動の仕方は、主イエスとは異なっています。だからと言って、ヨハネの働きの目的が主イエスと異なっているわけではありません。ヨハネが宣べ伝えたことは、主イエスが宣べ伝えられることと同じ線上にあります。自分の後から来られる方が十分に明らかにしてくださることを、ヨハネは先立って人々に告げ知らせました。ヨハネの洗礼を授ける働きから主イエスのお働きへと道はつながっていきます。来週の箇所になりますが、主イエスもこの道を進み、ヨハネから洗礼を受けられ、福音を宣べ伝えるお働きを始められます。マルコによる福音書は、このヨハネの働きの前に私たちをぐいと押し出すようにして福音書を語り始めます。私たちも主のお働きに自分自身を開き、主のみ言葉を自分の内なる耳で聞くために、洗礼者ヨハネによって備えられた道を辿っていくことを求めます。

 

 マタイやルカ福音書の出だしは私たちの内に様々なイメージを湧き上がらせます。東方の占星術の学者たちや野宿をする羊飼い、人で溢れるベツレヘムの町、空き部屋を探すヨセフと身重のマリア、闇のただ中で周りを照らす主の栄光とみ使い。マルコによる福音書の出だしは、マタイやルカとは違う仕方で、私たちの内にイメージを与えます。荒れ野に現れたヨハネと、様々なところから集まってきて、川でヨハネから洗礼を受ける人々。ヨハネの姿も印象的です。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」。新しい翻訳では「ばったと野蜜を食べていた」となっています。この姿に、旧約聖書で語られている、ぶどう酒を飲まず、家を建てず、ブドウ園も種も畑も所有せず、生涯天幕に住んで、預言者として主に仕えることをひたすら求めた禁欲的な預言者たち(エレミヤ35119)を重ね見る人々もいます。当時遊牧生活をする人々の生活を重ね見る人々もいます。荒れ野は、旧約聖書以来、大きな役割を神さまから委ねられた人々が、それまでの暮らしを後にして出て行った場所、そこで新しい一歩を踏み出した場所でした。荒れ野に出て、一人、このような働きを始めたヨハネに、多くの人が注目をしたことでしょう。

 

 ヨハネの働きをマルコによる福音書は、「洗礼を授けた」ではなく、「洗礼を宣べ伝えた」と表現します。ヨハネはやって来る人に次々と機械的に洗礼を授ける、授けられた人はその儀式によって自動的に何かを得る、そのような洗礼を授けていたのではなく、悔い改めの洗礼を宣べ伝えることが、ヨハネの働きの軸となっています。ヨハネは洗礼を授ける者であり、説教者です。福音書は、ヨハネの説教と洗礼が、罪の赦しを神さまからいただくためのものであると伝えます。「ために」という言葉は、目的だけでなく方向も示します。そこに至る方向です。神さまから与えられる罪の赦しへと、人々を方向づけます。後から来られる主によって切り開かれる道が進む方向へと、方向づけます。ヨハネの働きは「罪の赦しを得させるため」であったともあります。「得させる」、つまり人々に、神さまからいただかせることへと方向づけるためです。方向を示されないとどこへ向かえば良いのか分からない、何をどう求めたらよいのか分からない、自分に本当に必要なものさえしばしば分からなくなってしまう、飼う者のいない羊たちのような人々に、何としても罪の赦しを得させたいというヨハネの強い願いが、「得させるために」という言葉から伝わってくるようです。

 

 ヨハネから洗礼を受けることによって自動的に罪が赦されると言われているのではありません。罪の赦しは、将来、神さまのさばきにおいて与えられるはずのものです。人の罪をすべてご存じであり、すべてさばくことができるお方である神さまの元に、罪から離れて帰り、悔い改め、罪の赦しを約束してくださっている神さまの憐れみの中に身を沈めるように川の水の中に水を沈めよとヨハネは呼びかけます。人は悔い改めを呼びかけられることで初めて悔い改める道へと目を開かれるからです。「悔い改め」と訳された言葉の本来の意味は、「心の向きを変える」というものです。この言葉を、新約聖書は、旧約聖書で用いられている「帰って来る」という意味の言葉に代わるものとして用いています。旧約聖書のこの言葉は、「今までのものから離れて出発点にたち戻る」ことを意味します。聖書では特に「主なる神との元来の関係への立ち戻り」を意味します。神さまによって存在することへと招き出され、命を与えられている人間の出発点は、神さまです。私たちが立ち戻るのは神さまとの関係です。この言葉の意味を受け継ぐものとして「悔い改め」という言葉が新約聖書で用いられていますので、この言葉は「悔い改め」だけでなく「立ち戻り」「立ち帰り」とも言い換えて、受け止めることができるのです。

 

 この言葉はそれぞれの福音書においてほとんどの場合、洗礼者ヨハネに関わる箇所で用いられています。ヨハネが宣べ伝えたことの本質が、神さまへの「立ち戻り」であることの表われです。神さまが自分たちの罪に対して心を痛め、怒っておられること、神さまが罪をさばかれることが神さまにとって正しいことであるということ、そしてこの罪にとらわれているところから自分の力や周りの人々の力で自分や誰かを完全に救い出すことはできないということを認めること無くして、神さまに立ち戻ることはできません。これらのことを認めること無くして、立ち戻る必要が分かりません。神さまにこそ確かな救いがあると、心の底から神さまの元に帰って行く備えができたのなら、立ち戻りの洗礼を受けるべきであると、ヨハネは宣べ伝えました。この洗礼を、神さまからの赦しが約束された主の道を進んでゆく歩みの第一歩とするようにと、呼び掛けたのでしょう。

 

 このヨハネの働きは、ヨハネが突然始めたものではなく、旧約聖書に預言されていたものであり、神さまのご計画の流れの中にあることを、福音書は旧約聖書の預言の言葉を引用することによって示しています。「預言者イザヤの書にこう書いてある」と述べて、イザヤ書403から引用します。捕囚の民に、神の都への帰還が告げられる箇所です。神さまに従いきれず、他の力に救いを求め、捕囚とされてきた民に、バビロンから神の都に至る広い道を荒れ地に通せと、呼び掛ける声があると言われます。起伏の激しい、人の行く手を様々な困難によって阻む荒れ野の谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くし、険しい道は平らにされて通される広い道を、神さまは告げられます。そのことによって、主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見るのだと言われます。このイザヤ書の一部が福音書に引用されます。イザヤ書だけでなく、マラキ書(31)や出エジプト記(2320)の言葉もここに含まれています。それぞれの時代において、道を見失っていた人々に神さまが道を示すために語られた言葉が組み合わされ、イザヤの名が代表として挙げられています。神さまが旧約聖書を通してこれまで告げてこられたように、ご自分の民として生きることができる道を拓いてくださると約束してくださっていたように、「そのとおり」、神のみ子であり救い主である方が世に来られると、イエス・キリストの福音が始まるのだと、洗礼者ヨハネはこれからキリストによって切り拓かれる道を指し示したのです。

 

 ヨハネのいでたちは強い人物を思わせます。荒れ野という場所の過酷さ、その後のヨハネの主の正しさを貫く生涯、そのために死んでいった姿も、近寄りがたい厳しさに満ちた人物を思わせるかもしれません。「荒れ野で叫ぶ者の声がする」という預言者の言葉も、私たちのイメージを強めます。けれどヨハネが宣べ伝えたことの本質にあるのは、神さまへの立ち戻りと罪の赦しです。神さまの元へと帰りなさい、そして神さまの赦しへと自分の日々を方向づけなさい、私の後に来られる方があなた方のために神さまに至る道を切り拓き、あなた方の赦しを実現してくださる、そう語るヨハネの言葉に、人々は厳しさ以上に希望を見出したから、ユダヤの全地方から、エルサレムの都からもやって来たのでしょう。住んでいるところの違いも、これまでの生き方の違いも超えて、罪の赦しのためにやって来たのです。

 

 

 ヨハネはキリストのことを人々に、「わたしよりも優れた方」と言い表しました。新しい翻訳では「わたしよりも力のある方」となっています。「力がある、優勢である、勝っている、何でも為し得る、すべての力を持っている」、そのような意味を持つ言葉です。更にヨハネはキリストのことを「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる方」と言い表しています。私たちから見れば非常に力強い人物であり、正しい厳しさを持ったヨハネ、主イエスが後にその洗礼が天からのものであったことを示され(112733)、ヨハネの洗礼と働きと権威が神さまに遡ることを示された人物、特別な働きを神さまから委ねられてその働きを貫いた人物でありますが、ヨハネの後に来られるキリストは、そのヨハネにも勝って力ある方、何でも為し得る方であります。この方が、私たちの罪の値を代わりに担ってくださり、赦しを実現してくださり、神さまに至る道を切り開いてくださいました。自分では自分の罪を認めようとしない私たち、自分では自分の罪を洗い落とすことができない私たちに、神のみ子が神の霊によって洗礼をお授けくださる、喜ばしき音ずれがここに始まっています。ユダヤの辺境の地で、歴史の現実の中で、神さまが起こしてくださった御業は、今も私たちの地で、私たちの現実の中で、私たちの出来事となり続けています。