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神の愛に応えて

出エジプト201217「神の愛に応えて」

202137日(左近深恵子)

 

 先月まで礼拝で、主の祈りに焦点を当てながら聞いてきました。主の祈り、使徒信条と並んで教会が大切にしてきたものに、十戒があります。美竹教会では今行っていませんが、礼拝の度に、十戒を共に唱え、その言葉を噛みしめている教会もあります。古から教会が重んじてきた十戒を、今日は特に後半に注目して受け止めたいと思います。

 

 新型コロナウイルス感染の影響を大きく受けるようになって1年以上経ちました。多くの人が不安と喪失、別離の悲しみを抱え、また多くの人が自分や周りの人の健康面でこれまで以上に弱さを覚えてきました。今までであれば、7日毎に主の家である教会に帰ることで、力づけられました。信仰生活の長さも年齢も暮らす環境も異なるけれど、主がそれぞれを招いてくださったというその一点を同じくする一人一人と、この場所で、顔と顔を合わせて賛美の声、祈りの声を合わせ、主の食卓を囲む不思議と喜びや、礼拝の前後に親しく言葉を交わしたり、食事やお茶を楽しんだりして深められる交わりの楽しさ、教会で過ごすこのような主の日から、新たな一週間に必要なものを溢れるほど受け取って家路に着くことが以前はできました。けれどその礼拝に共に集うことも妨げる感染によって、私たちの生活は、中心から揺さぶられてきました。困難な局面でその困難さと共にある私たちを力づけ、支えるものを与えてきてくれた礼拝と交わりを、望むような仕方で守れないことに、心細さを覚えてきました。

 

だからこそ美竹教会は、多くの方と礼拝を捧げることが叶わない状況下でも、この礼拝を核にして、それぞれの場で共に主の招きにお応えすることができるように、この礼拝に連なってそれぞれの場で礼拝を捧げることができるように、この場で捧げる礼拝を大切にしてきました。勿論、実際に集って捧げる礼拝に勝るものはありません。実際に会うことによって与えられる交わりは何ものにも代えられません。そのようにして一人でも多くの方とここで顔を合わせて礼拝を捧げられる時が一日でも早く来ますようにと、一年以上願い続けてきました。けれど、共に集うことができない寂しさを抱え続けていても、感染の影響やそれぞれの事情に振り回されてきても、私たちの根幹は揺さぶられていません。心細さを募らせても、私たちの土台が細ることはありません。私たちの根幹は、私たちの土台は、主から与えられた信仰にあるからです。私たちが顔を合わせて分かち合ってきた力、喜び、慰めは、それぞれの言葉や行動を通して私たちに示されてきた、それぞれの私たちとの関わりを通して私たちに証しされてきた、信仰であるからです。

 

 十戒は、神さまがイスラエルの民にお与えになったものです。民はかつてエジプトの地で奴隷とされ、過酷な労働を強いられていました。奴隷である彼らには、様々な自由と共に、自分たちの神、主なる神を礼拝する自由がありませんでした。出エジプトの目的をモーセはファラオに、神さまの「ために祭りを行うため」だと告げています。そうしてファラオの支配下にある人々が、神さまが主であることを知るようになるためだと、神さまはモーセに言われています。神さまが主であることを知らない人々、認めようとしない人々は、イスラエルの民を人間として見ようとしません。尊厳を踏みにじり、苦役を強います。そのファラオとファラオに従う人々によって押しつぶされそうになっているところから助けを求めるイスラエルの人々の叫び声に、神さまは耳を傾けられました。その嘆き、呻きを耳にされ、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約を思い起こされました。契約とは、神さまが人々に与えられた永久の約束です。あらゆるものをお造りになった神さまが、イスラエルの民を選ばれ、この民と深く関わり続けることを約束されました。イスラエルの民のふさわしさにではなく、そうすることを決められた神さまのご意志に拠って約束され、この約束を、信実をもって守ってくださいました。当時世界最強の力を持つと自他ともにみなされていたエジプト王ファラオの支配下にイスラエルの民が置かれていても、イスラエルの民をこの状況から解放する力を持つ者、つまりファラオの力を超える力を持つ者を、誰も思い浮かべることができない世界にイスラエルの民が置かれていても、神さまはこの約束を貫かれ、イスラエルの民をファラオの支配から救い出し、自由の中を生きる者とされました。これまでと異なり選び取る自由がある中、ご自分の招きに応えて神さまの民として生きる道を進むことへと、招いてくださいました。肉体は生きていても、人として生きることができなかった彼らが、神さまがご自分の民としてくださったことによって人として生きることができるようになり、その上聖なる民とされました。神さまがご自分の民としてくださったことで、祭司の王国となり、神さまと他の人々の仲立ちとなり、神さまのみ前に出て祈ることができない人々のために執り成しの祈りを捧げる役割を担う民とされました。十戒は、人々がこの神の民として生きていくことができるように、神さまが与えてくださった道標です。

 

 私たちにはそれぞれ自分の居心地の良い暮らし方、関わり方があり、それらから離れたくないのが自然な感情です。自分の好む暮らし方、関わり方と必ずしも一致しないことを外から求められると、抵抗を覚える者であります。十戒は、自分の日々を、自分の生活や周りの人々との関わりを、何に基づいて私たちが作るのか示します。十戒のことを社会一般のきまりと並べて同じようなものだとしてしまうと、十戒が求めることにも私たちは抵抗を覚えたり、自分の生活や関係の持ち方とずれが目立たないところまで十戒を引き寄せて、受け止めたことにしようとしてしまうでしょう。

 

 また、私たちの中にはきまりを与えられて、そのきまりに従うことだけを重んじたがるところもあります。きまりを守れば正しいのだと、守ったから正しいのだと思い、そのきまりが与えられている背景も意味も脇に追いやって、決まりを守ることで安心を得ようとしてしまい、自分の人生の責任をきまりそのものに丸投げしたり、その決まりをこのように守りなさいと教えてくれた者に押し付けようとしたくなるところがあります。

 

 私たちは生活を何に基づいて決めるのでしょうか。十戒の戒めを退けたり、守りやすい程度に矮小化する私たちのその時その時の判断でしょうか。それとも十戒の戒めを私たちの生活に適用するために具体的なルールに落とし込んでくれる誰かの判断でしょうか。決めるのが自分であっても、あるいはルール化してくれそうな誰かであっても、その判断は何に基づいているのでしょうか。私たちの判断は、生活の仕方、傾向、価値観、その人を取り囲む社会の常識、風潮、その人がどれだけ周囲の評価を重んじるのか、周囲の目を恐れるのか、そういったことに左右されます。自分や誰かが判断しているようでいて、実際には様々なものから影響を受けています。こちらの影響を強く受ければこちらに傾き、あちらの影響を強く受ければあっという間にあちらの方へと傾いていきます。自分の理想が判断において大きなウェイトを占める時もあれば、周りにどう見られるかという不安が他を押しのけてしまうこともあります。

 

契約を守り、ご自分の民を導き、そのことによって他の人々にも祝福をもたらす救いの歴史の中で十戒を与えてくださった神さまのみ業と、十戒に現れている神さまのご意志が、私たちの生活と関わりの基です。揺さぶられる私たちに、神さまに従う歩みを示す道標です。十戒の前文で神さまは、イスラエルの民をエジプトの国、奴隷の家から導き出してくださったみ業とご意志を思い起こさせてくださり、この神さまのみ前に立ち帰って、この神さまとの関わりの中に自分自身を置いて、この戒めを受け留める姿勢を整えてくださいます。そして十戒の前半で、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、私たちの主である神さまを愛することを教えてくださいます。十戒の後半では、自分自身を愛するように、周りの人々を愛することを教えてくださいます。既に神さまが私たちを愛してくださっているので、私たちは自分や周りの人々を愛するための愛を、勝ち取る必要はありません。愛されている愛にお応えして、神さまを愛し、周りの人を愛します。私たちは神さまに対する恐怖から従うのではなく、罰せられることから逃れるために従うのでもありません。神さまは私たちを縛り付け、不自由にするためにではなく、神さまの慈しみに応えて生きるために、私たちの生活を、他者に対する言葉や振る舞いを、幸いなものとするために、与えてくださったのです。

 

後半の戒めの一つ目は、両親との関わりを取り上げます。私たちは、み言葉を私たちに伝える、神さまと私たちの間のパイプのような人々を通して、神さまから慈しみをいただいてきました。私たちは肉体だけで生きている生命体ではなく、その内側に神さまの慈しみを溜めていくことのできる者、その神さまの慈しみによって生かされている者です。神の民にとってみ言葉を伝える最も近しい関わりは、親子のそれです。親は子に神さまの慈しみを伝える務めを神さまから委ねられています。神さまの慈しみによって生かされていることを知る私たちは、伝えてくれた相手に感謝を伝えたいと望むのです。信仰を伝えることが無かった親子の関係であっても、誰かの子である私たちは、神さまから託された私たちを養い育ててくれた親に、神さまに従う仕方で心から尊敬の念を払うことが求められています。

 

次の戒めは、周りの人々を不当に傷つけることを、禁じます。私たち自身を、ご自分がお造りになったからこそ愛すようにと神さまが求めておられるように、神さまがお造りになった他の人々のことも、ご自分のかたちとして尊ぶことを求めておられます。次の戒めの配偶者に対する愛もそうです。誰かに対して抱くことができた愛を尊ぶことを求めておられ、そして同様に、他の人々の結婚の結びつきも尊ぶことを求められます。愛という神さまからの特別な贈り物を、私たちの身勝手な欲望で腐敗させてはならないのだと。

 

次の戒めは他の人のものを不正に奪うことを禁じ、私たちが貪欲さに支配されないように諭します。「日毎の糧を与えたまえ」と祈ることを主イエスが教えてくださったように、私たちの必要を満たしてくださる主に信頼することを求めておられます。隣人に関して偽証することを禁じる戒めは、私たちに隣人の名誉を汚すことを禁じ、真実を語ることを求めます。最後の戒めは隣人のものを奪うだけでなく、欲することも禁じます。私たちの心が貪欲な思いや妬みに呑み込まれることから、引き戻してくださいます。これらの戒めは、家族も隣人も、その人々との関わりも、その人々を慈しむ私たちの思いも、その人々が得ているものも、神さまからのものであることに気づかせてくれます。それらの賜物を汚してしまうところから私たちを立ち帰らせ、感謝して受け止め直すことへと導きます。神さまの慈しみにお応えし、隣人との間に幸いな関わりを求めることへと、導いてくださいます。 

 

 

 私たちは、これらの戒めを完全に守ることができません。たった一つの戒めすら、守り通すことができません。私たちが自分の不完全さに目を瞑っても、神さまに隠すことはできません。私たちの拠り所は、私たちよりも先に私たちを愛してくださった神さまが、自らの力では自分を救うことのできない私たちをキリストの贖いによって赦し、救ってくださったこと、私たちのうちにある罪深さよりも、神さまの恵みの方が勝ることにあります。戒めによって自分の罪の深さに目を開かれながら、戒めによって私たちは、私たちの生活や周りの人々との関わり方を律するのは、神さまの恵み深さであることに信頼し続けることができます。この戒めは、守っても守らなくても良い、参考程度の教えではありません。人として生きられなかった民が、人として生きることができるようにされた荒れ野で与えられたものです。自由の内に神の民として生きていこうとするその旅路で与えられたものです。人として本当に生きていくことができるように、神さまの息によって生きるものとされた私たちの道を照らし、私たちが罪を告白し、罪を悔い改め、神さまの慈しみの内に歩むために、与えてくださったものです。十戒の戒めを心に刻む日常生活を形作っていきたいと願います。