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賛美に至る祈り(主の祈り)

この数カ月、礼拝で「主の祈り」を一言づつ味わってまいりました。その最後の言葉が「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり、アーメン」、という「頌栄」になっています。

ただこの「頌栄」は、そのままの形で聖書には出てきません。マタイ福音書に記された「主の祈り」にもルカ福音書の方にも、出てこない。けれども、とても大事な言葉として「主の祈り」の最後に加えられてきた言葉です。一体誰が添えたのか。それは「主の祈り」を教えていただいたイエスキリストの弟子たち、さらには教会の礼拝で、この祈りを祈る信仰者たちが、復活されたイエスキリストを賛美する言葉として「主の祈り」の最後に口にしてきたと考えられます。後から加えられたと聞くと、なんだか二次的で価値が劣るように感じられるかもしれません。イエスキリストご自身の言葉でなければ何となく重みが薄れると感じられるかもしれません。原点にこそ価値がある、と考える考え方からすればそうかもしれません。けれどもそのような考え方だけではないのです。原点も勿論大事ですが、原点である種から萌え出でた豊かな実りを含めて全体に、聖霊の御業と妙なる意味を見る考え方もあります。そもそも聖書の考え方、そして教会の考え方がそうなのです。イエスキリストが教えてくださった祈りを祈るうちに、必然的に応答する言葉、当然の帰結として口にせざるをえない、ほとばしり出る信仰の告白として、主の祈りに欠かせない言葉として受け継がれてきたのです。

さらに、さかのぼって旧約聖書をひも解いてみますと、これは聖書の信仰に固く根差した祈りの言葉でもあることに気づかされます。聖書を代表する祈りの一つともいえる、神殿建築を前にしてのダビデの祈り。旧約聖書の歴代誌上2910節以下。ダビデは神殿を建築するために人々と一緒に資材や献金をささげ、祈ります。

 「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはいにしえからとこしえまでたたえられます。主よ、偉大さ、力、誉れ、輝き、威厳はあなたのもの。まことに、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、王国もあなたのもの。あなたは万物の頭として高みにおられます。富と栄光は御前より出、あなたは万物を支配しておられます。勢いと力は御手にあり、その御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。私たちの神よ、今こそ私たちはあなたに感謝し、誉れある御名をほめたたえます。」(聖書協会共同訳)

ダビデの祈りの冒頭にある「頌栄」は、主の祈りの結びの言葉と見事に響きあいます。古くからの旧約聖書の祈りの精神が、「主の祈り」の最後に見事に表されていると言えるのです。

今日共に聞きました詩編113編も、この聖書の祈りの心を如実に現しています。こちらは、ダビデの祈りと異なって、非常に動的でダイナミックな賛美となっています。「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わる、正に讃美の中の讃美ですが、「讃美せよ」との呼びかけが重ねられます。4節以下で「主はすべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。私たちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお低く下って天と地をご覧になる」と歌いあげます。この6節については、訳し方によっては「御座を高きに置きながら、主はご自身を投げ捨てて天と地とを顧みられる」とも訳せるのです(左近淑)。「聖書の神は、ご自身を投げ捨てて低きに下る神である」(同)、と。この旧約詩編の讃歌は、新約聖書の「キリスト讃歌」(フィリピ2: 611)のハーモニーと響きあっています。ご自分を投げ捨てて低きに下られた神の行く先は、「弱い者」「乏しい者」「子の無い女性」のもとだと。御国の栄光と力をかなぐり捨てるかのようにして、神の身分を捨てて人となられたキリストが向かわれたのは、弱い者、乏しい者、社会の周縁になど生きたくないのに生きざるをえなかった人、様々な障がいのために疎外されていた人、子を持たない母、「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになるのか」と叫びと祈りを振り絞る者たちの間でありました。その極みにへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで徹底的に深い淵に身を沈められたキリスト。そのキリストを「高く挙げ、あらゆる名にまさる名をお与えになる」神の御業がもたらすのは、「弱い者を塵の中からおこし、乏しいものを芥の中から高く挙げ、子の無い女を家に返し子を持つ母の喜びを与え」、深い淵から静かに、けれども確かに一つ、また一つと湧き上がる「ハレルヤ」との讃美であったことを詩編、そしてフィリピの手紙は証ししているのです。

イエスキリストに教えたいただいた祈りに、聖書に深く根差した賛美の言葉が結びつけられて、キリスト教の歴史を貫いて祈り継がれてきた。今私たちが祈っている祈りは、旧・新約聖書からキリスト教の歴史を経て、代々の聖徒たちの祈りに連なるものであることを、「主の祈り」最後の「頌栄」は明らかにする、そういう意味で大事な言葉なのだと言えます。

 

 「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」、「汝のものなり」ではなく、「汝のものなればなり」と祈る。それは「なぜなら、~だからです」という意味です。教えた下さった祈りを受けて、これまで祈ってきたすべての根拠がここにあることに心震わせながら祈り締めくくるのです。御国を来たらせてください、この地上に。なぜならば、そのみ国も力も栄もあなたのものだから、日用の糧を今日も与えてください、なぜならば、そもそも国も力も栄も、あらゆる糧の源はあなたなのだから、養われ生かされているこの命、その生きる時も死ぬときも、そもそも、この当てにならない私のものなどではなく、全てを統べ治められる確かな礎であられる、あなたのものだから。悪より救い出してください、なぜなら、悪に足を掬われて、一敗地に塗(まみ)れても、兄弟姉妹を力づけることができるものへと立ち直る力を与えて救い出されるのはあなただから。すべての願いの奥底に、この信仰がある。「なぜなら、国と力と栄とは限りなくあなたのものだから」と。

 いま、願いと申しましたが、主の祈りの願いの一つ一つは、私たちの普段の願いを越えてゆき、私たちの願わない先にある願い、あるいはあらゆる願いも希望も潰えたその奥にある、本当に願うことが必要な願いへとイエスキリストの御姿を思い起こしながら導きゆくものです。私たちがまだ罪人であった時にそこから解き放たれる必要性を覚えていない傲慢の極みにあった時に、すでに十字架によって代わりにその罪を負って救いを明らかにしておられた。死んだら終わりと平静装ってうそぶいて刹那の喜びを切り貼りして生を謳歌しているつもりでいた時に、本当に直視すべき死の力と既に格闘して打ち勝たれ、復活の朝に御手を広げて迎えてくださった、その主イエスの御姿を見ることへと「主の祈り」の言葉は祈るものを導きます。一言一言噛みしめて口にしながら、真に願うべきものへと導く祈りであり続けたといえます。

おそらく、イエスキリストが教えてくださった祈りを弟子たちも集まって祈るたびに、そして主イエスの復活を思い起こす礼拝で祈るたびに、時代が下って、しだいに教会が迫害にさらされながら、時にクリスチャンの信仰のゆえに誹謗され、異質なるものとして排除され、ついには殉教の死を遂げる最後の時にも、イエスキリストが教えてくださった祈りを祈ってきたことでしょう。吹きすさぶ時代の逆風の中で、愛する故郷を失い家族を失い、どこにも光見えぬ世界で神をあがめさせてください、神様のご支配を来たらせてください、糧をお与えください、仇するものの罪を赦させてください、この的外れな生き方に終始する私を赦してください、そう祈ってきた。祈りえぬ祈りを主の祈りに導かれ支えられながら祈ってきた。

人の望みの絶え果てた後になお、そこにこそ真の祈りがあることを教えてくださった。本当の地獄を見たものにこそ与えられた祈りです。ここにいる人たちは皆さん、このそれぞれの地獄を生きた人たちです。そして「主の祈り」に導かれて今あるを得ている人たちです。お一人お一人キリスト無しには生きられない苦闘にのたうった末の穏やかな笑顔があるのです。コロナ禍にあって、み言葉なしには生きられない渇きにあえいだ末の賛美がある。イエスキリストの到来で始まった御国は、既に来たけれど、未だ完成の途上にあるから、この世の地獄にのたうつけれど、御国を来たらせ給えと願いながら、必ずや完成の日、あなたの支配があまねく行き渡るのを、信仰のまなざしをもって、はるかに仰ぎ見ることができる、国と力と栄とは限りなくあなたのものだから。   あたかも建築家ガウディのように、世代を超えて石積み上げてこの目で見ることのないかもしれない、あなたの御国の完成のために、ご支配のあまねく行き渡るを証するために、地獄のような今日に槌をふるって少しだけ、完成のためにはかけがえのない一握りの証を立てて行く尊い命の使い方がある。「この世の中を、私が死ぬときは、私の生まれたときよりは少しなりともよくして逝こうじゃないか」(内村鑑三『後世への最大遺物』)と。

悪の力が蔓延り跋扈して、もはや抗い闘う力失せはてて、疲れて流れ流され、いつしか物分かりよく心地よさに耳ふさぎ、目を閉じてこの世の倣いに身を委ねて小さな願いに満たされて、主の十字架の犠牲の血で贖われた命を、陰府にまで下られて死の力と死闘された末に勝たれた命を、封じてマスの下に隠し、もはや願うことすら忘れる私たちに、試みにあわせず、悪より救い出してくださいとの祈りを傍らでとりなしをもって祈り続けられる主イエスの御姿を知る。私たちの戦いを代わって戦われる主イエスが祈る。そのとき私たちは、国も力も栄も、ちんけな悪などのものではなく、限りなく神様、あなたのものだからです、ともう一度息を吹き返すように賛美するものへと回復されるのです。

 

だれかの栄光や成功に目がくらみ取り残されてわが身を覆う闇に沈み込む時、その闇の奥で初めて、レント(受難節)の中を私たちの負う苦しみを代わりに負うて歩まれる主イエスを見るのではないでしょうか?いわゆる私たちの目を射る栄光とは対極にある、誰かの負債を代わりに背負い、懐に大穴開けてでも借金を棒引きにして、債務から解き放つために、その尊い命をささげ尽くされたイエスキリストの十字架への歩みこそ、聖書は「栄光から栄光へと」向かう道行だというのです。時がたてばくすんでゆく私たちの栄光ではなく、終わりの日にこそ全き新しさを持って輝く神の栄光に、私たちは日々新たに造り変えられてゆく希望を知っているのです。「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」アーメン。