· 

失望よりも深く

「失望よりも深く」ルカ223134(主の祈り)

2021214日(左近深恵子)

 

 主イエスの祈るお姿、祈りをもって人々に語り、癒されるお姿を間近で見ていた弟子たちは、主イエスから祈ることを学びたいと願いました。そこで主イエスは、私たちが「主の祈り」と呼ぶ祈りによって、祈ること、祈りながら日々を歩むとはどういうことであるのかを教えてくださいました。大切な決断をされる時には、夜を徹して祈ることもあった主イエスですが、教えてくださったのはd誰もが日常の中で用い続けられる小さな祈りでした。小さいけれど、祈りの土台となるものが凝縮されていました。心からの呻きをもって、神さまの恵みとお働きを請い求め、感謝することへと導いてくれる祈りであり、それは神さまが求めておられるものでした。祈りの前半で神さまのみ名、神さまのご支配、神さまのご意志に関わることを願い、私たちの生活の中で思いや行いを正すことを願うことを教えてくださった主イエスは、祈りの後半では、私たち自身のより現実的な必要について願うことを教えてくださいます。前半の祈りによって神さまのみ前に自分自身を置いてきた私たちは、この自分の願いにも必ず耳を傾けてくださるとの、幼い子どものような丸ごとの信頼をもって願いを注ぎ出すことへと導かれます。

 

 主イエスは私たち自身のより現実的な必要として先ず、今日の糧を願うことを教えてくださいました。私たちも含めた神さまに存在と命を与えられた者たちに、豊かな大地を住まいとして与えてくださり、私たちが生きていくために何が必要であるのかご存じである創造主の養いの中にある幸いを思い、神さまからの糧に今日も生かされることを願うことを教えられました。次に、キリストによって罪を赦された平安を受け留め、この平安を他者との関わりにおいても真摯に求めることも教えてくださいました。これらの祈りによって、神さまから与えられている幸いに思いを至らせ、その幸い溢れるところが、私たちの新たなスタート地点であることを教えてくださいました。

 

 けれど私たちはその幸いを保ち続けることが難しいのです。人の言葉、人の視線にダメージを受け、自分の期待になかなか届かない自分自身に気落ちし、自分の言動を正当化してくれそうな言葉に引き寄せられそうになります。ふらつき、迷い、私たちを押し流そうとする勢いに抗って踏みとどまることを放棄したくなる、そうして主の幸いから離れ出てしまいます。主の幸いから離れれば離れるほど、私たちは脆くなります。詩編30編の言葉が思い起こされます。「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたがみ旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしたちはたちまち恐怖に陥りました」(詩編3078)。本当に私たちはたちまちのうちに、あっという間に、不安に陥ります。主の幸いの確かさはいつの時も揺ぎ無いのに、そこに立ち続けられない私たちは精神的にも肉体的にも弱っていきます。だから詩編30編がこの後続けて主のみ名を呼んでいることに、つまり祈ることに、力づけられます。詩編は祈りにおいて主に憐れみを乞います。私たちも詩編のように、祈る道が与えられています。自分の脆さを見つめきれない私たちよりも深く、私たちの弱さを見据えておられる主イエスが、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と願い求めることを教えてくださっています。この願いを、先ほど共にお聞きしましたルカによる福音書の個所を通して受け止めてまいります。主の祈りに焦点を当てて聖書から聞くことは、本日がひとまず最後となります。そして今週の水曜日からレント(受難節)に入ります。試みと悪の力の中を私たちのために歩み通され、死者の中にまで降られたキリストのみ業と恵みを思う時が始まります。この時にこの箇所に耳を共に耳を傾けられることは、真に幸いなことと思います。

 

 主イエスがエルサレムに入られ、十字架で死なれ、復活されるまでの1週間に主が受けられた苦しみと死を特に覚えるために、教会はレントの最後の週を受難週と呼んで過ごします。エルサレムに入られた主を、ある人々は歓喜して迎えます。一方、敵意を募らせる人々もいます。日を追うごとに主イエスに対する悪意が増していきます。主イエスに敵意や警戒心を募らせる人々は、主イエスの存在と活動が、自分たちが欲しているものの妨げになると考えています。しかし主イエスを歓迎する人々も、自分たちが欲していることを実現してくれるだろうと期待しているからこそ、その到来を喜んでいます。歓喜するにしても敵意を募らせるにしても、自分が欲していることのためです。主イエスは、祈りも悔い改めも無く訴える人々の要求に応じるためではなく、人々に本当に必要なものを与えるために、神さまの幸いを人々にもたらすために世に来られました。そのような主イエスを人々は受け入れることができず、そうしてエルサレムに入られた週の後半にはもう、主イエスが弟子たちと囲む過ぎ越しの食事が、最後の晩餐となりました。

 

 この席上で主イエスは、私たちにとって聖餐の制定の言葉となる大切な言葉を語られ、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。そしてご自分を裏切る者もこの食卓に着いていることを言われ、その裏切りを通して、ご自分は定められた通りに去って行くと告げられました。弟子たちは自分たちの内、いったい誰がそんなことをしようとしているのかと、互いに議論し始めます。ユダを除いた弟子たちにとって、裏切りは思ってもみなかったことでしょう。しかし主イエスが逮捕された後、全ての弟子が主イエスを見捨てることになります。ではこの食卓で「それはもしかしたら私なのかもしれない」と彼らが思い始めたかと言うと、そのようなことはなく、寧ろ議論は自分たちのうちで誰が一番偉いのかと、という話に移って行きます。自分は裏切らない。そんな駄目な悪い弟子ではない。だから自分は裏切るその者よりも偉い。では自分は裏切らない他の者たちと比べてどうなのだろうか。その中の序列はどうなのだろうか。誰が誰よりも重んじられるべきなのか。そのように考えたのでしょうか。

 

これは彼らが好む話題でした。以前も主イエスがご自分の受難と死と復活を繰り返し予告された後に、このような言い争いを始めました。彼らは主イエスが苦しまれるところ、死の苦しみと対峙されるところを、主の弟子である自分たちの価値が明らかになるところと捉えていたのでしょう。言い争いの本質にあるのは、自分たちが欲しているものかどうかで人や物事を測り、価値判断を下す彼らの思いであることを見抜かれた主イエスは、ご自分を受け入れることが、彼らが重んじられることにつながることを教えられました。彼らの都合が定める価値によってではなく、神さまのみ名によって互いを受け入れることを教えられました。しかしその後も彼らの中で、序列をつけたがる思いはくすぶっていたのでしょう。主イエスに深刻な苦しみが訪れそうなこの時、再びその思いが表に現れ、議論となります。主イエスは弟子たちに、先の時とは異なり、彼らが人の上に立つ者となることを前提に語られます。ご自分が世を去られた後に弟子たちが信仰共同体を導くことを先立って見つめておられます。けれどここでも、彼らを指導者としての立場につけるのは、彼らの持っている力に依るのではありません。キリストが彼らにその務めを委ねられるからです。ご自分は人々の中で仕える者として歩んでこられた、そして彼らは様々な試練に遭った時にご自分と一緒に絶えず踏みとどまってくれた、だから人々を指導する力をあなたがたに委ねると言われます。彼らの間で、彼らに仕えてくださり、試練の時にキリストと共に踏みとどまろうとする彼らを支えてくださったキリストが、彼らを人の上に立つ務めにつけられるのです。

 

弟子の筆頭であるペトロは、弟子になった順番やこれまでの働きから、一番弟子であることを自負していました。議論が起きた時も、自分が弟子たちの中で一番偉いと思っていたのではないでしょうか。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております」と断言するペトロです。この先新たな試練に遭っても主の傍に踏みとどまり続ける自信に溢れたこのペトロに向かって、主イエスは繰り返し「シモン、シモン」と名を呼びます。根の浅い自信を根拠に言い張るペトロを深く憐れむように、この晩の内に、三度主イエスを裏切り、その自信が砕かれるペトロに、ペトロが隠そうと、見て見ぬふりをしようとしているその弱さを私は既に見つめていると、私と共に見つめようと、繰り返し名を呼んで語り掛けられます。

 

主は、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われます。主イエスご自身がかつて荒れ野で、40日間誘惑する力と闘われました。エルサレムに来られてから、サタンは既にユダの中に入ったと言われています。今度はペトロも支配しようとします。ペトロだけではありません。31節で「サタンはあなたを」ではなく「あなたがたを」とあるように、全ての弟子たちを支配しようとします。小麦を、食べられないもみ殻や小石から分けるように、弟子たちが主イエスに信頼して歩む者であるかどうか、キリストと共に踏みとどまろうとしている者であるかどうか、サタンのふるいは明らかにします。弟子たちを揺さぶり、主が与えてくださっているはずの幸いは、この状況では無力ではないかと思わせ、主イエスではないものにすがらせ、主から離れさせようとします。信仰に生きてきても人間はこんなにも弱く醜いものではないか、信仰も神の救いも虚しいと打ちのめし、再び信仰に生きることなどできないと思わせようとします。

 

けれどキリストは、ペトロがそこから立ち直ることを前提に語っておられます。ペトロに向かって、試練に遭っても揺さぶられるな、堅固に立派に立ち続けろとは言われません。「立ち直ったら」と言われます。「立ち直る」と訳された言葉は、「向きを変える」「振り向く」「立ち帰る」「引き戻す」といった意味を持ちます。「ある方向へと向きを変える」ことを指します。神さまでは無い方へと向いてしまう、そこから離れてしまう、道を見失ってしまうペトロが、そのところから再び主の方へと、神さまの方へと向きを変えて、戻って来ると主は言われます。最終的に弟子たちを支配できるのは、神さまに聞き入れられなければ弟子たちをふるいにかけることのできないサタンではなく、神さまです。その神さまに信頼して立ち直ることができるように、主イエスが既に祈ってくださったと言われます。「わたしは」と強調して言われます。「このわたしが祈った」「わたしこそがあなたのために祈った」と言われます。弟子たち、そしてこの時代に生きる主イエスの弟子たちである教会は、嵐のように揺さぶられている時も、全てを支配しておられる神さまの御手の中にあり、私たちの信仰が無くならないように、私たちのために祈ってくださったキリストの祈りの中にあります。その祈りをもって十字架にかかってくださり、実現してくださった罪の赦しと言う幸いの中にあります。主イエスは、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさいと言われます。信仰に挫折した弱い者が他者を力づけることができるとされます。自分がいただいている恵みを知っているからです。自分が欲するものを求めた末に道に迷い、覚悟と自信では自分が欲する歩みを続けられず、挫折し、失望し、暗い空洞のようになった自分に、神さまが罪の赦しという新しい恵みを注いでくださった、だから、私たちは新しい信仰に生き直すことができます。自分では自分のことをそう見ることが難しいのですが、キリストは弟子たちを、私たちを、キリストの元に立ち帰る者と見てくださっている、そして他者を力づける者であることを求めておられる。だから、キリストにお応えして、そのことを心から請い求めることができるのです。

 

 

主の祈りで「試み」と言われるものは、苦難や困難を伴う試練の意味もあれば、誘惑という意味もあります。信仰に生きようとするからこそ直面する試練や誘惑です。私たちが聖書を通して本来あるべき在り方、生き方を示されているからこそ、揺さぶられ、もがきます。そして土の器のような私たちは試練や誘惑との闘いによって簡単にひびが入り、自分で立っていられなくなってしまうような者です。この弱い私たちに主イエスが「試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と願うように教えてくださっていることに、深い憐れみを見いだします。そして既に私たちの中にいただいている恵みが、私たちの欠けやひびから溢れ出し、誰かの力になることを、この私のために祈ってくださったキリストは、あなたのためにも祈ってくださっていると他者に語ることを、求めることができるのです。