· 

赦しを求め

「赦しを求め」マタイ18:2135

202127日(左近深恵子)

 イエス・キリストが主の祈りの中で、私たちに直接関わる願いとして真っ先に、日用の糧を求めることを教えてくださったことに、私たちは祈る度に喜びと驚きを覚えます。日曜の糧が私たちに無くてはならないものだと、キリストも知っていてくださっていることが喜びです。どう日常を維持しようかと心がいっぱい、いっぱいになっているなかで、日用の糧が祈りの対象であるということに気づかされる祈りです。喜びと気づきを覚えながら、この願いを、心を込めて祈ることができるでしょう。しかし、わたしたちの多くは次の祈りに移る時に、勢いを失い、ためらいを覚えます。次に来るのは、罪の赦しについての祈りです。糧の祈りで思いっきり心の扉を開けたのに、その扉を少し狭めたくなります。そこに私たちの抱えている問題があるからです。そこに問題があるからこそ、ためらいを覚える私たちにこのように祈るようにと主イエスが教えておられることを、受け止める必要があります。

 

 罪を思う時、私たちは自分のこととして考えずに、他の人の問題だと思いたがります。自分に関わる罪を思っても、その大半は他者が自分に対して犯した罪ではないでしょうか。それだけではないと、自分にも罪があるということを認めようとする思いを持つことができても、それでもあの人のせいだ、あの時の状況のせいだ、自分は知らなかったのだ、自分はそんなつもりではなかったのだなどと、自分の罪の重みを軽くできる考え方へと傾いていきます。主イエスがルカによる福音書でされた、ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話が思い起こされます(18914)。ファリサイ派の人と徴税人の二人が、祈るために神殿に行きます。ファリサイ派の人は祈りにおいて、自分は他者よりも正しい者です、あの人たちのような悪いことをしていない者ですと、自分の正しさについて感謝します。一方徴税人は目を天に上げることもできず、胸を打ちながら「神さま、罪びとのわたしを憐れんでください」と祈ります。交読詩編で読み交わした詩編51篇と重なるような祈りです。主イエスはこのたとえによって、人の中にはファリサイ派の人のような思いや他者への見方があることを明らかにされました。自分はこんなに頑張ってきた、自分は他の人のためにこんなに時間と労力を注いできたと、自分の功績を誇示したい思い、あの人たちほど悪いことはしていないと、誰かのことを思い浮かべて優位に立ちたい思いは、私たちの内なる目を曇らせ、道を見失わせます。主イエスは、義とされたのはこの徴税人の方だと、自分の正しさをうぬぼれ、他者よりも正しいと安心している者の方では無いことを明らかにしておられます。

 

創世記は人間を、神さまから「人が独りでいるのは良くない」と言われ、助け合う仲間を与えられた者であると語ります。神さまによって本来、仲間と喜びや辛さを分かち合い、力を合わせ、祈り合い、助け合うことができる存在として造られ、本当はそのように助け合って生きることを願っているのに、そうではない現実がいくらでもあります。神さまのみ前に立ち、神さまに祈る時でさえも、自分の正しさにうぬぼれ、他者を見下すことから自由になりきれない私たちであります。

 

先ほど共にお聞きしましたマタイによる福音書の箇所は、それまで主が人と人との関わりについて語ってこられた締めくくりに当たります。罪によって本来の在り方で生きられなくなってしまった人々が、キリストによって新たな結びつきを与えられている、その人と人との、神さまに喜ばれる交わりはどのようなものであるのか語ってこられた主イエスに、ペトロが質問しています。

 

ペトロは、人が自分に「対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と問います。交わりを阻害する罪を、他者のこととしてしか捉えておらず、自分のことは罪を犯される側、あくまでも被害者の側にあると見ています。「7回までですか」と、落としどころを交渉するかのように具体的な数字を挙げます。7は聖書の中で完全を表す数字です。ペトロとしては最大限という意味で7回と言ったのでしょう。7回までなら何とか赦せると思ったのでしょうか。しばしば自分の正しさを過信してしまうペトロです。「たとえみんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と豪語しながら、その晩、鶏が無く前に三度も主イエスのことを知らないと言ってしまうペトロです。今日の箇所でも自分の現実を見つめないまま、他の人よりも多めであろうと、完全数である7という数字を言ったのかもしれません。こんなにも多くの回数を自ら挙げた自分を、主イエスが高く評価してくださることへの期待も、あったかもしれません。

 

しかしペトロの問いは、限度があることを前提にしています。他者を赦せる我慢には限界があるという前提、主イエスが自分たちに求める赦しにも限度があるという前提です。それはペトロの人生経験から導き出された当然の思い、誰もがそう思うはずの常識であったのでしょう。私たちも同じ思いを抱くのではないでしょうか。自分に対して罪を犯した者を赦すということは、一回だってしたくないのが普通の感情です。何とか必死になって赦せたとしても、後になってまたそのことを思い返した時に、赦せないという思いが内側に沸き起こる私たちは、一回ですら完全に赦すことはできません。多くのことを忘れたと嘆くのに、受けた仕打ちは忘れない、わざわざ記憶に刻み付ける、思い返すことで自分を傷つけ、それを相手によって今もなお傷つけられているのだと思ってまた苦しみます。罪は、深く深く、人と人との関わりを破壊し続け、それぞれの人の本来の輝きを失わせてしまいます。

 

このペトロに対して、主は大きな値で返されます。ペトロが挙げた目標値の重みをかき消すように、770倍と言われます。これは490回までは赦すべきだが、491回目になったら赦さなくて良いというようなことではありません。完全を表す数の完全数十倍をお応えになるということは、数えきれないと、限度が無いと言っておられるのでしょう。赦しには限度があると思っている全ての人の認識を根底から覆すように、赦すことにおいて終わりは無いことを教えられます。

 

主イエスはこのお応えと、続けて語られた譬えによって、理不尽な仕打ちを受けた自分、不愉快極まりない、不当な攻撃を受けた自分が、必死に頑張って赦してあげる、そう考えているところから、ご自分が与える赦しの中へと導き入れます。譬えの中の王は、家来のとてつもない額の借金を帳消しにします。その王の行動と、その源にある憐れみの心によって表されるように、主の赦しは我慢や頑張りではありません。費やしたものと回収できるものの収支を計算し、納得できる取引だからと同意することによるのでもありません。家来は「どうか待ってください、返しますから」としきりに頼みます。しかし労働者の日当の六千万日分に相当すると言われる借金をこの家来が労働によって返せるはずはありません。王は憐れみによって帳消しにします。27節で「憐れむ」と訳されている言葉があります。この言葉を主イエスは三つのたとえ話で用いておられます。一つはルカによる福音書の、いなくなっていた息子を遠くに見つけて走り寄る父親について(ルカ1520)であり、もう一つは「善いサマリア人」に対してであり(ルカ1033です)、そして今日の箇所です。内臓を指す言葉が元となっているこの語は、心の底からの思いや願いを表します。三つの譬えによって主イエスは、神さまの人に対するみ業とみ心を語られ、その憐れみに倣って神さまのご意志を実行する人のことを語られます。今日の箇所の譬えの王も、負債を抱えた家来の窮状と繰り返し訴える願いに心を動かされ、借金を無かったことにします。家来が王に多額の借金をしていることは事実ですが、王がそれをもはや数えないと、白紙にしたのです。神さまが人を赦されるとは、このようなことなのです。

 

自分が赦された者でありながら、その赦しに背を向けるように、自分が赦された事実など無いかのように、自分に対する仲間の借金をこの者は赦すことができません。多額の借金を赦されたのに、自分に対する借金の額は、その十万分の一です。王はこの者に、「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべき」だと言います。ここでも「憐れむ」という言葉が出てきますが、これは先ほどとは別の言葉です。「憐れむ」という意味や「慈しむ」という意味があります。神である王の慈しみが人間の窮状の中へと入ってきました。困窮したところから救うためです。先行して自分に与えられているこの慈しみを、他者の困窮の中へも、他者と自分の関わりにも注ぐことを、主イエスは求められます。赦しの根拠は、人の我慢や頑張りではなく、神さまから注がれている憐れみ、慈しみにあります。私たちの困窮の只中にまで下られ、悲惨さの中へと分け入ってくださり、共に嘆いてくださったキリストに根拠があるのです。

 

私たちが、主の祈りの、罪の赦しを祈ることをためらうのは、「罪を赦したまえ」だけでこの祈りが終わらず、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と祈ることも教えられているからではないでしょうか。赦したくない、赦すことが難しい、その思いが私たちをためらわせます。他者を赦しきれてこなかった事実が、祈りの勢いを削ぎます。けれど私たちに赦しを可能にさせるのは、先立って私たちを赦しておられる救いのみ業と、いつも共におられ、キリストによって結び付けられた者同士の関わりを再生してくださる聖霊のお力によります。私たちにできるのは、赦しを願うことです。神さまのみ心に背き、その罪によってみ心を悲しませ、苦しませてきた私たちの罪を帳消しにされ、多額の負債を抱えた信用ならない者であった私たちとの関係を回復してくださり、慈しみと憐れみでその関係を満たし、ご自分の子としてくださった方に、祈りによって願うことであります。

 

 

たとえ話の家来が、赦されたことの意味がその時には理解しきれていなかったように、私たちもキリストの十字架によって赦されたこと、赦されざる者でありながら赦されたことの意味を、隅々まで理解しきれてはいません。誰かを赦そうとする中で、どれほど深い憐れみと慈しみの交わりの中に主が結び付けてくださっているのか、知ることができます。他者の罪を心に留めないで置くことにもがけばもがくほど、既に与えられている恵みに気づかされ、自分の罪人としての姿に目を開かれます。自分はなおもこびりついてくる罪と絶えず闘わなければならないこと、その闘いのために絶えず神さまの赦しを祈り求めなければならないことに目を開かれます。他者の自分に対する罪が、その人と自分との関係にとって決定的なものとはならないと考えることへと導かれ、現在だけでなく過去も神さまにお委ねする姿勢を取ることを促されます。そのようにして打ち砕かれ、悔いる魂こそが、神さまが私たちに求めておられるいけにえなのです。主イエスはマタイによる福音書の主の祈りの直前で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われ、その理由を、「あなたがたの天の父の子となるため」と教えられました(54445)。赦すことに格闘すればするほど、キリストの命の値をもってしか贖うことのできなかった私たちが、神の子とされている恵みを知ります。キリストの十字架のみ業と、み子の命をもって私たちを神の子としてくださった天の父のご意志にお応えして、神の子として生きるために、神の子として成長していくために、主の祈りによって祈ってまいりましょう。