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神が共におられるから

マタイ11825「神が共におられるから」

2020126日(アドヴェントⅡ)左近深恵子

 

 神のみ子は、人として世に降られました。この不思議な出来事に最も大きな関わりを与えられたのは、主イエスの両親とされたマリアとヨセフでした。神のみ子が人としてお生まれになるために、神さまはこの二人をみ子の両親として立てられました。二人ともそのように望んでいたわけではなく、そのような人生を思い描いてきたわけでもなく、二人にしてみればある日突然自分の人生に全く理解できない、受け入れ難い出来事が起こったことでしょう。クリスマスの出来事をルカによる福音書はマリアに焦点を当てて語りますが、マタイによる福音書はヨセフを軸に語ります。この福音書においてヨセフは先ず、福音書冒頭の主イエスの系図にマリアの夫として名前が挙げられ、続く今日の箇所に登場し、そして第2章で主イエスの命を狙うヘロデから逃れるためにエジプトに避難する場面に登場するのです。

 

 ヨセフの婚約者マリアは聖霊によって身ごもりました。ヨセフはおそらくマリアからそう知らされていたことでしょう。しかしマリアの言葉をどう受け止めれば良いのか、苦悩していたことでしょう。

 

その苦悩は、二人の間だけのことではありませんでした。婚約者ではないものの子を宿すことは、二人が属する社会にとってあってはならないことでした。婚約した女性は婚姻の日まで両親の家で暮らし、婚姻後に夫と生活を始めますが、婚約は法的に婚姻に等しいものであったからです。マリアのことが公になればマリアが律法に従って石打の刑に処せられるかもしれない、深刻な出来事であったのです。

 

私たちはヨセフの置かれている立場、状況、胸の内をあれこれ想像することができます。けれどそれは聖書がしようとしていることではありません。マタイによる福音書は、ヨセフの苦悩の内容や度合いを語ってはいません。伝えるのは、ヨセフが密かにマリアと離縁することを決心していたことでありました。

 

この出来事において浮かび上がるのは、一人苦悩するヨセフの姿です。一人で考え、一人で決定しているヨセフの苦しみや判断に、マリアの存在は見えてきません。神さまに神さまに苦しみを訴え、問いかけたとも記されていません。一人で苦しみ、一人で道を定めようと思っている、そうできると思っているヨセフが苦悩の末に辿り着いたのは、マリアの妊娠をできるだけ周囲に知られない仕方で離縁するという結論でした。

 

聖書はこのような決心をしたヨセフを「正しい人」と呼んでいます。マリアの妊娠が周囲に知られてマリアが処刑されてしまうことを避けるためなのか、妊娠の原因が自分にあることにして世間の批判をマリアから自分に向けるためなのか、「正しい」と呼ばれる理由ついて様々な解釈がなされてきて、それらは推測の域を出ませんが、聖書はヨセフの判断の軸になっているのは正しくあろうとする思いであることを認めています。

 

けれど同時に聖書は、ヨセフの判断の根に恐れがあることを見抜いています。マリアとお腹の子どもと自分が共に生きていく道には先が無いのではという恐れによって、マリアとお腹の子どもを受け入れることに背を向けたヨセフを、救い主の親として生きる道へと方向転換させてくださったのは神さまです。天使を通してヨセフに語り掛けてくださった神さまの言葉が、ヨセフを導きました。あなたは一人では無いのだと、生ける神である私が、今、あなたとマリアの人生において救いの出来事を起こしているのだと示してくださいました。不安と苦しみに満ち、追い詰められたこの状況において、神さまが御業を推し進めておられることを、告げてくださいました。

 

クリスマスの出来事を、ヨセフを軸に語るこの福音書ですが、今日の個所で最も大きな比重を占めているのは天使を通して告げられる言葉であり、旧約聖書からの引用です。ヨセフは今日の個所でも2章のエジプトに避難する出来事でも、救い主の親として重要な役割を果たしていますが、伝えられるのはその行動だけで言葉は何も述べられていません。クリスマスの出来事において明確に語られているのは神さまからの言葉です。それらを語り掛けておられる神さまのみ心です。「正しい」と認められているヨセフです。おそらく律法に従って生きることを、これまで真摯に求めてきたことでしょう。密かにマリアを離縁する決断も、律法の規定をただ機械的に当てはめてマリアが処刑されてしまうことではなく、律法を民の生き方の指針として与えてくださった神さまのご意志に従うことを求める思いがあったからでありましょう。それでもヨセフ一人では、神さまのみ心に従う正しさを見極められません。正しいと思いながら道を選び取るヨセフの動機の中に、自己中心的な思い、自分本位な思い、自分を犠牲者としてのみ捉えていたい思いが混じっていないとは言い切れないでしょう。それらは恐れです。ヨセフであっても、正しさを求める思いに浸み込んでくる恐れに揺さぶられ、神さまの道を踏み出すことが自力ではできなくなってしまいます。ヨセフも私たちと同様に、理解しがたい神さまのみ心よりも、想定される辛い状況を恐れずにはいられない人間です。先を見通すことができない状況で、今現在目に見えている現実や、この先降りかかりそうな流れを支配しているように見える様々な力を、恐れずにはいられない人間です。神さまが示された道に確信が持てなくなり、恐怖や不安を掻き立てる力に引き寄せられてしまうことを繰り返している人間です。だから神さまは私たちにみ言葉をもって語り掛け、私たちが一人では無いことを教えてくださいます。神さまに従うよりも、自分自身に従いたがる、自分一人で道を決めていたがる私たちを、その孤独から引き揚げるために、これまで御手を差し伸べてこられました。そして、私たちを引き上げ、ご自分のみ国へと導き入れるために、み子を与えてくださいました。救い主、メシア、キリストとして私たちを救うために、み子を世のただ中に、私たちのただ中に、降らせてくださったのです。

 

クリスマスにその誕生をお祝いする方は、救い主です。この福音書は他の福音書と同様に主イエスを証ししますが、この方が救い主であることを初めから宣言しています。福音書は系図で始まりますが、その冒頭、11でこの系図は「イエス・キリストの系図」であると、イエスという偉人の系図ではなく、人としてお生まれになり、他の人々と同じように固有の名前を持ち、人々の間で御業を行われながら人生と命を捧げてくださったキリストの系図であると、宣言しています。

 

そのようにして書き始めた系図は、ただ血筋を表すものではなく、名前を記された人々も罪を負う人間であることを示します。それが最も明らかなのはダビデです。系図の初めで「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と述べることで、ダビデ王の血筋でもあることを確認した上で、ダビデの個所で敢えて「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と記しています。ダビデが王としての力を悪用して犯した罪を隠しません。ダビデに明らかなように、罪を抱えた人々の系図です。同時に、それらの罪人の歴史を貫いて神さまがみ言葉をもって語り掛け、救いの道を指し示し、御業を推し進めてこられ、とうとう旧約聖書の時代から約束してこられた救い主を遣わされるまでの系図です。そのようにキリストの系図を記した後、続いてクリスマスの出来事を語るためにこの福音書は先ず、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と述べます。これから語るのは、私たちにこの季節にふさわしい慰めや癒しの気分をもたらしてくれる赤ちゃんの話ではなく、キリストの到来であるのだと、恐れに囚われたところから自分で自分を引き上げることのできない私たちを救い出し、罪から救うキリストの誕生であることを、明らかにします。121には「この子は自分の民を罪から救う」と述べて、何から救われるのかはっきりと告げます。そして次の節では預言者イザヤの言葉が引用されて、この子は「神は我々と共におられる」を意味する「インマヌエル」と呼ばれると言われます。マタイによる福音書は、その結びにおいても「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、復活のキリストの言葉を記しています。主イエスは、人々を罪から救うために、救われた人々を一つの神の民としてくださるために来られた方であり、私たちの命も死も超えて、私たちと共におられる方です。聖書は「神は我々と共におられる」と述べているのであって、「私たちが神と共にいる」と述べていません。救い主の到来は神さまが決めてくださり、神さまが成してくださったことです。自分は一人でも構わないと、自力で生きていけると思いたがる私たち、辛いこの現実に本当は神など無力なのではないか、本当に力を持つのは、世を動かしている世の力なのではないかと揺らぐ私たちに、神さまの側から救い主を遣わしてくださいました。神さまにその命と存在を望まれて生きる者とされ、神の民として生きることへと招かれながら、バラバラでいた私たち一人一人に、共にいてくださることを私たちではなく神さまが熱望してくださったから、クリスマスの出来事は起きたのです。

 

今年再び巡って来たクリスマスの期節は、これまで厳しい時を経てきた私たちを、温かく迎えてくれているようです。せめてこの期間位は楽しい気分でいたいという思いが、罪について聞くことから距離を置きたくなる気持ちをいつも以上に後押ししてしまうかもしれません。けれど罪について聞きたくなくても、自分の罪を認めたくなくても、私たちが罪を抱えているという事実は変わりません。聖書は私たちに明確に、「この子は自分の民を罪から救う」方だと告げています。

 

あるいはまた私たちの中には、不安を抱え続けてヒリヒリとするような自分の状態、何カ月にも渡って味わってきた重い孤独感に、クリスマスの高揚感がそぐわないという思いがあるかもしれません。けれど神さまは閉塞した闇の中、独り苦悩していたヨセフに語り掛けられ、神のみ子、救い主と共なる道へと導かれました。

 

 

救い主の到来によって起こった罪の赦しは、その後の歴史においても起こり続け、今も起こり続けています。教会はそのことを証し、賛美し、感謝を捧げる神の民です。クリスマスの恵みにふさわしく、アドヴェントの日々を過ごしていきたいと願います。