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世を救う光

2020.11.22.美竹教会主日礼拝

ミカ7:8-9、ヨハネ12:46-50 

「世を救う光」浅原一泰

 

わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても主こそわが光。わたしは主に罪を犯したので、主の怒りを負わねばならない。ついに、主がわたしの訴えを取り上げ、わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。

                 

わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終りの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。

 

 

 

 

新型コロナウィルスによって人類が危機に見舞われることとなった今年。小さい幼気な子供たちから、若者から、大人から、ご高齢の方々に至るまで、我々の生活のすべてが変革を求められたこの2020年も、残すところあとひと月余りとなった。紅葉の景色が広がり、着実に秋から冬へと動こうとしている季節の移り変わりも感じることが出来る。しかしながら、そんな物思いに耽ることができなくなるような現実を突きつけられてもいる。先週からコロナ感染者が急激に増加し、第三波の到来と叫ばれるようになって、私たちの心は再び不安と恐怖に脅かされ始めている、と思うからである。

 

先ほど読まれた聖書の中に、「たとえ闇の中に座っていても主こそわが光」という言葉があった。「闇」とはどんな状態であろうか。どんな状況のことを指すのであろうか。それは光のない世界である。暗黒に包まれ、何も見えない世界である。おそらくそこでは、周りで人が泣こうが笑おうが、喚こうがはしゃぎ回ろうが何も感じない、すぐ隣で人が血だらけになって痛み苦しんでいようと、或いは人を嘲笑って勝ち誇った笑い声をあげる人間が集まっていようと、何も見えず、何も気にならないのかもしれない。たとえすぐ横で人が死んでいようと何も思わなくなっている世界。或いは打ちのめされ、心がずたずたに引き裂かれる余り、最早何の喜びも感じず、痛み悲しみも感じなくなっているような、それほどまでに人間としての感覚が麻痺してしまっている世界。もしかしたらそれが、聖書の言う「闇」というものなのかもしれない。

 

もしそうであるならば、正直に申し上げて私自身は闇の中にいる、と今、感じている。何故かと言えば、世界で新型コロナの感染者は5700万、死者は140万人を数えている。この日本でもすでに感染者は13万人にも上り、死者も2000人を数える。冬を迎えるこの時期、従来ならばインフルエンザウィルスの予防に人々の目がいくはずなのに、むしろ今、コロナの第三波が到来と報じられて誰の心も戦々恐々としている。それでいて、かかってしまうのは当たり前ではないか、仕方ないことなのではないか、と思い始めている自分がいる。感染が広がり、多くの人命が危機に曝され続ける毎日に次第に驚かなくなり、他人事だから、自分や家族が感染しなければそれで良しとしようではないか、とふと思い始めてしまっている自分がいる。決定的なワクチンがない以上、死者が出るのも仕方ないではないか、とどこかで割り切って考え始めてしまっている自分がいる。痛み苦しんでいる人々が増え続けるこの世界の只中にあって、次第にそれに慣れて来てしまっている自分、世界に猛威を振るうコロナよりも、七月に体調を崩して以来、未だに思い通りに回復できない自分のふがいなさばかりに気を取られてしまっている自分がいるのである。そこに、あの善いサマリア人のたとえに出て来る、道端で倒れている人がいても目を背けて道の反対側を通ってしまうような祭司やレビ人にしかなれなくなってしまっている自分をまざまざと見せつけられているように思われてならない。そういう自分は闇の中にいる、と正直感じている。それは、罪を重ねて来た私自身が受けねばならない報いの一つなのかもしれない。先ほどのミカの言葉にあったように、「わたしは主に罪を犯したので、主の怒りを負わねばならない」ということなのかもしれない。

 

しかしながら、それでも聖書は、闇に覆われた混沌たるこの世に向かって「光あれ」と叫ぶ、それが造り主なる神の第一声であることを伝え続けて来た。先ほどのヨハネ福音書の中でも、世に来られる神の独り子がこう言っていた。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」のだと。この聖書の告げる言葉を、神の独り子イエスのこの声を、今ここにおられる皆さんはどのように受け止めるだろうか。余りにも長きに亘って我々の心を鬱屈させ、未だに出口の見えない闇の中に引きずり込み続けている新型コロナが辺り一面に立ち込めているかもしれない今の現実のこの世の只中にあって、このイエスの声を真剣に、真摯に、誠実に受け止められるであろうか。むしろ、神の言葉を現実とは引き離して、聖書はいつも正しく、美しいことを言う、ときれいごとで済ませようとしてはいないだろうか。そんな風に片づけてしまってはいないだろうか。それとも、現実はそうは甘くはないんだ、今、このような非常事態において抽象的な神の言葉なんぞは力にならない、と諦めてしまいそうにはならないであろうか。諦めかけている自分がそこにいないだろうか。そう思うなら、そこに既にもう聖書のいう闇が立ち込めているのだと思う。神の言葉に対して、現実には何の助けにもならない、とそう思わせていく力。或いは美しい、心が洗われる良い言葉だ、と感じるだけで所詮は綺麗事で片づけさせてしまうような力、実際には自分自身を生かし励まし立ち上がらせることなど出来ないように思わせていく力。それが闇の力である。しかし、だからこそそこに生ける神の言葉は決して消えることのない光として、寄せては返す波のように果てしなく終わりなく語りかけられてくる。聖書はそのことを私たちに気づかせようとしている。

 

さきほど私は正直に、自分は闇の中にいると感じている、と申し上げた。体調を崩して以来、自分が闇の力に押しつぶされつつあることを感じて来た。そしてそれは私だけではないと思っている。不安、恐怖、諦め、絶望感に悩まされている人は勿論、同じ気持ちでおられると思うが、それらに真摯に向き合うことなくむしろそれを紛らわす為に何か手っ取り早い楽しみや喜びを見つけようと思い煩っている人、ついそうしなければと動いてしまう人も、無意識の内に闇の力に操られているのではないだろうか。本当の光に気づかないまま、たとえそれを頭では知っていても現実に自分を生かし励まし立ち上がらせるその光の力に気づかないまま、所詮は限りある命しか生きられない罪人たる自分の知恵や力を頼みとして動いている、そのように見えるからである。しかしイエスは別の福音書の中ではっきりとこう告げておられた。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」(マタイ10:34)。この言葉が告げているように、神の独り子イエスは、戦うために来られるのである。闇に覆われたこの世において、そこで上手く取り繕って涼しい顔で済ませられるような見せかけの平和で満足させないように、剣をもたらす為に来られる、というのである。そのようなイエスの剣に対して、闇のこの世は常に、自分の世界を守ろうとしている。自分の支配下にある者たちをかくまおうとしている。その為に罪と死と悪魔の力がいかんなく発揮され続けている。それらは偽りの光で人間を満足させ、真の光たるイエスの声を「きれいごと」として片づけさせ、現実には何の力もないなまくらの刀として錆びつかせようと、人の心を誘惑し始めている。生きた神の言葉を告げるイエスの声によって生かされることのないよう、目が開くことがないよう、エデンの園の蛇の如くに、食べても死なない、神の言葉に背いたって、自分の好きなように生きられるよ、と執拗に囁き続けている。そのような闇の力をミカは敵と呼んだ。そして、「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても主こそわが光」と語るように神から託された。その時、まさしくミカは、たとえ闇の中にいるままであったとしても神の言葉によって生かされ、立ち上がらされていた。「光あれ」と叫ぶ神の言葉の光に包まれていた。その光はまさしく、罪と死と悪魔の力が幅を利かせている闇の世に切り込む剣としての「光」であったに違いない、と思うのである。

 

その光は2020年の今この時、再び世に訪れようとしている。寄せては返す波のように繰り返し、世にある我々に向かって、闇しか見えていない我々の目を開かせる為に、沈んだ我々の鬱屈した心を切り刻んで奮い立たせる為の剣として、その光は間もなくこの闇の世を、そして世にある者一人一人を照らそうとしている。その光は我々人間の肉をとり、我々人間の言葉で、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と告げて下さるのである。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」、と語りかけてくださるのである。その光が訪れるその日その時こそ、いよいよ次の主の日に迫ったアドヴェント、待降節に他ならない。そうではないだろうか。それは世を裁くための剣ではない。世を救うための剣であり光である。見せかけの喜びや楽しみで一喜一憂するまがいものの命ではなく、神が一人一人に分け隔てなく与えておられる永遠の命へと、全ての者を振り向かせるための剣であり、光である。世を救うための光として来られるその方は、しかしこう言われていた。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終りの日にその者を裁く」と。もしかしたらその意味は、世を救うために来る真の光が世のすべての命あるものを照らすよう、終りの日が来るまでに、あなたがたは光の燭台となるように、という教会に対するキリスト・イエスの熱い思いなのではないだろうか。我々クリスチャンに対するイエスの切なる願いなのではないだろうか。それまでは、闇の世に代わって我々教会が主の怒りを背負わねばならないこともあるのではないだろうか。しかし、世を救うために来る私に、決して世を裁くことをさせないでくれ、そのためにわたしはあなたがたを選んだのだ、あなたがたがわたしを選んだわけではないのだ、というイエスの慈しみと愛に満ちたそれは訴えなのではないだろうか。新型コロナの猛威に晒され続けていようと、闇に覆われている状態であろうと、生ける神の言葉を告げるこのイエスの声こそが、闇に押しつぶされつつあった私自身をも立ち上がらせようとしてくれている。不安、恐怖、絶望感に苛まれている人々を本当の光で照らそうとしてくれている。そして自分の薄っぺらい知恵や力によって偽りの喜びに浸ろうとしていた心を剣で切り刻み、本当の光へと振り向かせようとてくれているのではないだろうか。

 

「わたしは道である」とイエスは言った。アドヴェントは、闇に覆われ、その闇の中でしか生きる術を知らなかった私たちに対する、神から延びて来る光の道である。だからこそその光をきれいごとで済ますことなく、現実には何の役にも立たないと諦めたくなる思いに流されることなく、むしろ真の平和をもたらす為の剣であり真の光として真摯に、誠実に受け止めることこそがこの時、世の教会に、我々クリスチャンに求められているのではないだろうか。倒れていた者を起き上がらせ、死んでいた者を生き返らせる主の光によって自分自身が変えられていくアドヴェントをご一緒に迎えたい、心からそう願う。