「あなたこそ救い主」(マタイ16:13~20)
2020年11月15日(左近深恵子)
私たちは教会に集い、礼拝をささげています。望みながら来ることが叶わない方たちも、教会で捧げられている礼拝を核に、それぞれの場で礼拝を捧げています。私たちは、日曜日毎の礼拝によって生活のリズムを刻んでいます。礼拝だけでなく、聖書に聞き、祈る時を共に持つ、「聖書に親しむ集い」や「聖書探訪」という平日の集会も教会は持っています。教会は『信音』も発行しています。『信音』を心待ちにしている方、美竹教会を紹介するため、伝道のために用いている方もいるでしょう。私たちは、これまで会えずにいた方たちとも一緒に、ここで礼拝を捧げられる日を待ち続けています。共に主の食卓を囲み、賛美歌の全ての節を高らかに歌い、お祝いの日には礼拝の後に愛餐会を開き、共に過ごせる日を待ち続けています。礼拝を捧げ、交わりを持ち、伝道することを諦めません。なぜでしょうか。様々な人が集まる教会で、全ての人が常にあらゆることに満足するということはあり得ません。配慮が行き届かないところもあるでしょう。それでも教会が信仰生活に無くてはならないということを、私たちは知っています。礼拝が、交わりが、伝道が、無くてはならないことだと知っているから、教会は牧師を立て、長老や様々な働き手を立てて、教会の活動を続けます。教会の業に信頼を置いています。様々な人々の集まりである教会の業に、信頼を置いているのです。
教会の業を最初に担った人々は、主イエスの弟子たちでした。この人たちが主イエスの弟子となったのは、主イエスから呼ばれたからです。「私に従いなさい」と、ご自分の後に従う道へと、招き入れられたからです。主イエスから呼ばれた時、弟子たちはそれまでの生活を後に残して、主に従いました。ご自分の招きに応えることを願い、その願いに応えることを信頼してくださった主イエスに、全てを捨てて信頼をもってお応えしました。この弟子たちが、やがて最初の教会の核となりました。
では教会は、この主と弟子たちとの間の、信頼と信頼で成り立つ関係の延長線上に誕生したのでしょうか。そうではありません。弟子たちはしばしば主イエスに従う道から外れてしまいました。信頼の破れが最も明らかになるのは、十字架の時です。主イエスを売り渡したり、見捨てて逃げたり、それぞれに主イエスを裏切ります。その時のペトロの行動を、福音書は詳しく伝えています。逮捕の前の夕方、最後の晩餐の席で、主イエスがご自分は裏切られることになると言われると、ペトロは、自分は主とご一緒なら一緒に牢に入っても良い、死んでも良いと覚悟している、そう断言します(ルカ22:33)。「たとえ、みんながあなたに躓いても、私は決して躓きません」とまで言ったと伝えています(マタイ26:33)。そのペトロに主イエスは、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」と言われると、ペトロは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言い張ります。他の弟子たちも皆同じように言ったと、マタイは伝えています。この時のペトロや他の弟子たちの思いに嘘は無かったのでしょう。職業も財産も家族も後に残して主イエスに従った時のように、全てを捨てて最後まで主に従う覚悟で、弟子たちはこの言葉を口にしたのでしょう。
けれど主イエスの逮捕に直面した時に彼らが捨てたのは、主イエスでした。信頼と信頼で結ばれて始まり、ここまで積み重ねられてきた関係の中で、耐えることができませんでした。そのような弟子たちであることを知りながら、主イエスはこの弟子たちに、教会として、ご自分のみ業を受け継ぐことを託されるのです。
主イエスはこの日弟子たちに先ず、人々がご自分をどんなものと評価しているのか、問われました。見聞きしてきたことを報告すれば良いその問いは、応えやすかったことでしょう。弟子たちは次々と答えました。弟子たちの報告から、人々は色々なことを主イエスについて言っているものの、本当のところ主イエスがどんな方であるのか、理解しきれていないことが分かります。弟子たちの報告を聞き終えてから、その上で主イエスは弟子たち自身に、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけられました。他者の意見をただ伝えて終わりとはされず、自分はどう思うのかと、自分のこととして応えることを求められました。
主イエスの問いは、それまでの人生を何もかも後に残して、今日まで主に従ってきた弟子たちに、主イエスをどんな方と思って従ってきたのかと、問うものでした。また主イエスはそれまで弟子たちに、ご自分の活動の手伝いをさせてきました。弟子たちを町や村に遣わされ、病を癒し、福音を宣べ伝える働きを担わせてこられました。主イエスのお働きを担ってきた彼らに、この問いは、なぜそれらをしてきたのかと、問うものでした。指示されたことをただ機械的に実行に移してきたのではないだろう、わたしをどんな者と思ってその指示を受け留め、実行に移してきたのかと、問うものでありました。
先ほどまでの勢いとは打って変わって、弟子たちは口を閉ざします。沈黙は一瞬だったのかもしれませんし、暫く続いたのかもしれません。他の人々よりも主イエスを間近で知って来たからこそ、言おうと思えば色々なことが言える、けれど何を言うことが最も正しいのか分からない、そんな思いだったのではないでしょうか。そこで声を挙げたのはいつものようにペトロです。その言動が正しいにせよ、間違っているにせよ、大抵の場合先頭を切るのはペトロです。今回も、答えが定まらなかった他の弟子たちに代わって答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。
ペトロの答えは、かつて他の弟子たちと共に言い表した言葉が、核となっているようです。それは湖の舟の中で、逆風に悩まされ、進めずにいた弟子たちのところへ、湖の上を歩いて主が来てくださった時のことでした。主イエスのように湖を歩こうとして沈みかけたペトロを、主イエスが助けてくださると、舟の中の弟子たちは口々に「本当に、あなたは神の子です」と言いました。ペトロはその時のことを思い出したのかもしれません。この「神の子です」という言葉に、更に「メシア」と「生ける」という言葉を加えて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いました。あなたこそ、神の民が待ち望んできたメシア、救い主です。神さまご自身のみ子です。周囲の民が礼拝しているような木や石でできた偶像ではなく、また人々がしばしば神のように崇めてしまう世の様々な力でもなく、あなたはこの歴史の只中で生きて救いを実現される神の子ですと、答えることができたのです。
この答えは、主イエスが求めておられたものであったようです。主は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われました。これまでも、他の人々がこれまで見ることができず、聞くことができなかったことを、見聞きしている弟子たちを、「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(13:16)と、祝福されたことがありました。主イエスにおいて、生ける神が自分たちと共にいてくださることを受け留めることができたペトロを、特別に祝福してくださったのです。
主イエスはまた「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。これまでにも、神のみ子を現わすのは、人の知恵や賢さではなく、父なる神であることを示してこられた(11:25)主が、ペトロの信仰の告白が神さまから与えられたものであることを明らかにされました。そして、「あなたはペトロ。私はこの岩の上に教会を立てる、あなたに天の国の鍵を授ける」と、約束されたのです。
この主イエスの言葉について、教会は主イエスが、ペトロがこの時為した告白の上に教会を立てると言われたのだと受け止めてきました。ペトロという一人の人間の上にではなく、告白の上に、その告白に現れている信仰の上に教会は建てられていると、信仰が教会の土台であると、受け止めてきました。
父なる神によって現わされた、み子、イエス・キリストへの信仰が、教会の土台です。最初の教会の活動を担った弟子たちの、文字通り命がけの伝道の土台も、私たちが連なるこの美竹教会の礼拝やその他の活動の土台も、父なる神が現わしてくださるイエス・キリストへの信仰です。礼拝のために生活と体調を整え、ここに辿り着くその思いと行動の土台も、願いながら礼拝に集うことが叶わない方々の家庭での礼拝と日々を支えている土台も、教会の様々な業を担っている方々の労苦を支えている土台も、神さまが現わされ、教会が受け継いできた信仰です。私たちの土台は神さまから賜っているからこそ、岩のように揺るぎなく、永久に教会を支え続けるのです。
教会とは、世から隔絶したところでも、現実離れしたところでもありません。寧ろ陰府の力、死の力の大きさを常に見つめているところであり、神さまが支配される天の国に至る道を、常に指し示しているところです。世に生きる私たちが、それぞれが置かれている現実と取り組んでいくための、土台となるところです。自力で罪の力から自由になることができない私たちです。死の力に真正面から向き合い続ける力もありません。救い主であり、生ける神のみ子である方のみ前に主の日毎に帰り、十字架と復活によって神さまが与えてくださった赦しと新しい命に、新たにされ、主の平和の内に再びそれぞれの現実へと踏み出す私たちです。復活の主が共におられることに、礼拝の度に内なる目を開かれることが、私たちの歩みを支えているのです。
それはペトロも同じです。今日の個所でこれほど主イエスにその告白を喜ばれたペトロですが、この箇所の直ぐ後で主イエスの言葉に躓きます。主イエスがご自分の受難と復活を予告されると、脇へと引っ張っていき、あろうことか諫め始めたのです。神の民の指導者たちから多くの苦しみを受けて、殺され、復活すると言われる主イエスの言葉は、ペトロが思い描くメシアの姿ではありません。ペトロが期待する救いはそのようなことでは実現されません。自分が告白した言葉の本質を理解しきれないまま、その告白が伝えているはずの神さまのみ心を自分の土台の岩とするどころか、石に躓くように、主イエスの言葉に躓きます。ペトロ自身が、主イエスから「サタン」と、「私の邪魔をする者」と呼ばれてしまいます。主イエスの道を妨げる者と、言われてしまうのです。
ペトロのこの情けなく、滑稽にさえ映る姿は、私たちの現実でもあります。主イエスの十字架と復活は、主イエスがどのような方であるのかの、本質にあるものです。そしてこの本質のところでこそ、私たちは揺らぎます。救いとは、傷つけられないこと、侮辱されないこと、死から極力遠くあり続けることだとし、救いとは人間の知恵や賢さや力で勝利することだと考える限り、十字架も復活も受け止めきれません。キリストの十字架が必要であるほど自分が罪人であることが受け入れられず、復活を受け留められないから、真の平安と希望が分かりません。十字架の言葉は、信仰という土台に立っていない者には愚かなものですが、信仰を与えられている者には神さまからの力です。礼拝の度に、私たちは土台に立ち直します。十字架の死の苦しみとその命の値をもって、神さまに至る道を切り開いてくださったキリストのみ前においてこそ、教会が天の国の鍵を神さまから委ねられていることの重みを知るのです。
教会は、主イエスこそ自分たちの罪を贖ってくださる救い主であり、神の御子であるとの告白へと人を導いてくださる神様のお働きと、教会をその告白の上に立てることを願ってくださったキリストの御業によって立っています。美竹教会も他の教会も、一つとなることができるのは、この同じ一つの告白が、教会の礎であり、私たちの礎であるからです。立つ場所を間違えればすぐに揺らいでしまう私たちです。土台が揺らげば、自分自身が揺らぐだけでなく、周りの人々に主イエスがどのような方であるのか伝えることも、天の国を指し示すこともできなくなってしまいます。けれど信仰の土台に立つならば、主から受ける幸いはこの私たちからも、 溢れ出すことでしょう。