2020.9.27. 美竹教会主日礼拝
ヨブ2:4-8、マルコ1:40-45、171 「深く憐れむ主」(浅原一泰)
サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。人々は四方からイエスのところに集まって来た。
先日、ある新聞記事に目が留まった。見出しには大きな太文字で、「やめよう コロナいじめ」と書かれていた。その記事が報告していたのは、ある小学校のことである。夏休みに生徒のみならず教師も含めて20人以上がコロナに感染したことが判明したその学校では、夏休み明けの始業式で校長から全校生徒に向かってテレビ画面越しに、「感染したことを悪のように責める人がいる。そうではなくて、不安な人たちに温かい言葉をかけられる人になって欲しい」との訴えがなされた、とその記事は報告していた。
その時ふと、10年前も似たようなことが学校現場で起こっていたことを思い出した。東日本大震災による福島原子力発電所の事故以来、近隣の地域は放射能汚染の危険が深刻な事態となり、あるエリアでは強制的に退去せよとの指示が出されたことを覚えておられるだろう。あの時、その地域だけでなく、汚染による被害を恐れた福島県民の方々は東京近郊などに引っ越して生活せざるを得なくなり、そのお子さんたちも東京の学校に転校することとなった。しかし、である。福島から転校してきたことが周りのクラスメートに分かってしまうと自分がいじめられてしまうのではないか、という不安に襲われた小学生たちがいたと聞く。だからどこから転校してきたかをひた隠しに隠した子供もいたし、後でそれが分かってしまって嫌がらせを受けた子供もいた。
その学校の校長もおそらく10年前に訴えていたことだろう。「不安な人たちに温かい言葉をかけられる人になって欲しい」と。「福島から引っ越して来たことを悪のように責めないで欲しい」と。それが学校として言える最大限のことだったのかもしれない。しかし、今起こっているコロナいじめは、そんなことを言葉で言っても何の意味もない、それが現実だということを我々に突き付けているのではないだろうか。コロナ患者への差別然り。10年前の福島からの移住者に対する差別然り。キング牧師が黒人と白人とが共に生きるべきことを訴え、ワシントン大行進を呼びかけてから57年が経った今、黒人男性が白人警察官の暴力によって死に至ったことがひきがねとなり、“Black lives matter”と書かれたプラカードをかかげたデモ行進が多発している人種差別問題然り。差別に苦しんでいる人たちが一向に減ることのない現実のこの世に向かって、「不安な人たちに温かい言葉をかけられる人になって欲しい」と、無論言わないよりは言った方が良いだろう。しかし、それを言うことにどれほどの効果があるというのだろう。もしかしたらその人は、それを言うことで自分は今出来ることをやった、という言い訳を言っているだけなのかもしれない。我々が本当に気づかなければならないのは、人間の中に、皆さんの中に、勿論この私の中にも、自分可愛さ故に自分に害のあると思われるものを遠ざけようとする、そんな差別感情が根深くこびりついている、という歴然たる事実に我々自身が誠実に向き合っていない、ということなのではないだろうか。
先ほどのマルコ福音書の中で、「重い皮膚病」を患っている人がイエスに願い出ていた。あなたは神の子なのだから、神の御心ならばわたしをいやす力をお持ちの筈だ。彼はイエスにそう訴えた。それを聞いたイエスはどうしたか。直ぐにその人を癒したわけではない。むしろイエスは彼を「深く憐れんだ」のである。なぜその必要があったのだろう。なぜイエスは「深く憐れんだ」のだろう。そこには、皮膚病という病についての世の常識というか、律法の決まりが関わっていた。レビ記13章には次の言葉が何度も繰り返されている。それは、「重い皮膚病の人に祭司は『あなたは汚れている』と言い渡す」という言葉である。祭司とは、当時のユダヤ人社会では世論を動かす力のある存在である。ではその決まりからどんな現実が引き起こされていただろう。皮膚病故に祭司から「汚れている」とレッテルを貼られた者は先ず隔離される。感染すると思われていたからである。するとその人は次第に社会からつまはじきにされ、毒をまき散らす病原菌のように扱われ、人格が踏みにじられていく。それが現実であった。先ほど、イエスに願い出ていたあの人も単なる皮膚病患者ではなかったのである。周りから白い目で見られ、人格を否定されていたに違いないのである。そのことと今、コロナ故にいじめに遭っている人が直面し、10年前に放射能汚染の疑いをかけられた福島の人々が抱えていた状況とがどこか重なって見えてくるわけである。
確かに聖書はこう教えている。「あなたがたは自分を汚してはならない。聖なる者となりなさい」と。しかし、それを聞いた世の人々はこう思った。聖なる者となるためには、隔離されている皮膚病患者に近づいて自分を汚すようなことがあってはならない、と。自分の命を守る為にコロナ患者を遠ざけ、誹謗中傷する人たちも同じ気持ちだろう。汚れている人を見て、「自分はああはなりたくない」と思い始めるのである。でもそう思い始めることが、聖なる者にするどころか却って人間を「汚れた者」にしている、ということに誰も気づけてはいなかった。イエスの時代から2000年経った今も、誰も気づけてはいないままなのだろう。コロナいじめや黒人に対する差別の現実がそのことを物語っている。事実、最初に紹介した小学校の校長は後になって、「どんなに気をつけてもかかるのがコロナ。『犯人捜し』をしても仕方ないと伝えたかった」と周囲に語ったという。しかし感染者は「犯人」なのか?そう呼んでしまうこと自体、その校長も感染者を差別しているのではないだろうか?
しかし、だからこそ、かつて神は動いた。神自らが、地上に彼ほど正しい者はいないと誇りとしていたヨブなる者をサタンの手に引き渡し、そのヨブがサタンによって重い皮膚病にかかることを神は黙認したのである。それが先ほど読まれたもう一か所のところである。サタンによって「汚れた者」とレッテルを貼られたヨブは周囲から散々に叩かれる。友人たちに裏切られ、罵られ、人格を否定されるほどの屈辱を味わう。「なぜこの私が苦しまねばならないのか」と必死に神に訴えても無視される、というこの上ない苦しみに苛まれる。しかし、神はヨブを見捨てたのではなかった。最後の最後、これまで彼を侮辱し続けて来た友人たちの為にヨブが執り成しの祈りを祈った時、神はヨブの病を癒す。友人たちもヨブに感謝し、仲直りする。そうして地に落ちていたヨブの名誉は回復される。それが、神が「深く憐れむ」ということだったのである。それによって、差別された者と差別して来た者とが和解し、共に生きる者へと変えられたのである。
今、その神はイエスと言う人間の姿形を取って、重い皮膚病患者の前に立つ。彼は「汚れている」というレッテルを貼られ、周囲から遠ざけられていた。しかしヨブとは違ってその患者は、自分自身も他人を差別して来たに違いない。だからその患者に「この人は悪ではない」などとイエスは言わない。周囲に向かって、「不安な人たちに温かい言葉をかけられる人になって欲しい」などときれいごとも言わない。むしろ黙ってイエスはその人を深く憐れむのである。皮膚病故に差別されて来たその人をイエスは見つめ、「あなたもそうしてこれまで差別する目で人を見てきたのではなかったか」と目で問いかける。皮膚の病が汚れなのではない。コロナに感染することが汚れなのでもない。その人たちを遠ざけ、自分さえ無事ならいいと思い始めることこそがあなたの汚れなのだ、とイエスは目で訴える。そして、それに気づいたなら、あなたは祭司のもとへ行って献げ物をせよ、とイエスは言った。今に置き換えるなら、教会へ行って神を礼拝しなさい、とイエスは言ったのだ。神の言葉によって新たに生まれ変わることを求めたのだ。しかしその人はイエスの言葉に背いた。俺はもう皮膚病ではない、完全に治ったのだと言いふらし回った。それで彼は気持ち良かったかもしれない。しかしそうすることで、彼は今なお皮膚病に苦しんでいる人々を益々見下し、追い詰めていくことになる。自分の中に根づいている差別感情に誠実に向き合うことなく、自分を再び汚していくことになるわけである。残念ながら、彼に対するイエスの憐れみは彼には届かなかった、と言わざるを得ない。
今、教会で神を礼拝している我々も重い皮膚病患者と同じ所に置かれていると思う。我が身可愛さ故に意見の違う者や害になりそうな者を遠ざけてしまう差別感情、それが汚れだとイエスが気づかせたかった差別感情は皆さんの中にも、私の中にも根深くこびりついているからである。そんな我々をもイエスは今、深く憐れんでおられる。そうではないだろうか。「私はそんな人間ではない」などと言い訳せずに、その現実と誠実に向き合うことをイエスは今、我らに求めている。日曜日に神を礼拝したくらいで「自分は汚れていない」と言いふらすのか。自分のことはさておいて「不安な人たちに温かい言葉をかけられる人になって欲しい」などときれいごとを言って片づけるのか。それでいて平気で感染者を犯人扱いしている自分の汚れから目を背けるのか。それとも我々を深く憐れまれるからこそ、我々自身の中にある疚しさに気づかせ、病に苦しむ者や敵対する者の為にこそ祈るべきことに気づかせて下さる神の御前に跪く者とされるのか。であるならば、皆さんと共に主の憐れみによって己が汚れに気づかされ、しかしその汚れの全てを背負って下さる主の憐れみに真摯に答えて心から主を褒めたたえる者へと変えられたい、新たに生まれ変わらせられたいと心から願う。