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聞いているから幸いだ

202089日 主日礼拝説教原稿 「聞いているから幸いだ」        

         ―マタイによる福音書13章10-23節―   神学生 岩田真紗美

 

主イエスは、ご自分に近寄る弟子たちに「あなたがたの目は、見ているから幸いだ。あなたがたの耳は、聞いているから幸いだ。」と、おっしゃいました。聖書の御言葉を聞いて、悟る人について「実に、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである」と言われました。ここには、神さまの言葉を信仰を持って聞く人が、更に豊かに恵みを与えられ、生き生きと新しい生命に生きていく様子が描かれています。み国の教えが人々に、次から次へと伝えられていく様子を見て取ることも出来ます。しかし、このように信じて聞く人々が益々新しい希望に生かされていく様子とは裏腹に、12節では「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という厳しい言葉で、聞く耳を持っていない人の事が、語られます。この譬え話を読む時、私は何時もこの箇所に躓いてきました。持っていない人が、持っているものまでも取り上げられてしまったら、その人は無一文になって、みんなの知らないところで力尽きていくのかなと、気持ちが暗くなったのです。そしてこの13章は1節から9節までの譬えを読んだ後、何節かをスキップして、18節以降の譬えの説明を再び聞くという、非常に罪深い聖書の読み方をしていました。しかし、これでは御言葉に耳を傾けていないことになってしまいます。そして、大事な教えに対して目も耳も、そして心までも閉ざしてしまうことになります。

ここで語られている「持っていない者」とは、まさにこのように耳を閉ざしてしまった私の姿を指すのではないだろうかと、その後、神学校の授業を受けるうちに気づくようになりました。今まで自分が聖書の御言葉を勝手に選び、悟った気分になっていた過ちを此様に突きつけられる度に、耳の痛い言葉や飛ばして読みたい部分ほど、飛ばしてはいけない部分なのだ、と知るようになりました。そして、本日の聖書箇所にも旧約聖書の引用、特にイザヤ書の引用が多くありますが、まさにこの旧約聖書の語る救い主、メシアとの出会いが、私の貧しい聖書理解の土壌を変え、心の固さの中に空気を入れる鋤のように、魂の頑なさを一気に砕いてくれました。

 

本日の譬え話は13章の1節から始まりますが、その冒頭には主イエスが家を出て、湖のほとりまで行かれ、そこで腰を下ろし、座っておられる場面が描かれています。イエスの姿を見つけた大勢の人々は、それぞれに違った目的や興味を抱きながら、岸辺に集まって来ました。そこで主は小さな舟に乗り込まれて舟の上で再び腰を下ろされ、すべての人々に同じように声が届くような環境を、ご自分のほうが遠のくことによって、作られました。神さまの言葉を「種」に譬えるならば、颯爽とそれを蒔く農夫のような主イエスは、岸辺に立っている大勢の人々に対して、主の慈しみ深い眼差しと威厳に満ちた声とが届くような環境を最初に整えられました。群衆は皆、安心感の中で語られる御言葉に耳を傾け始めていたことでしょう。この世は人間の価値観で物事が進みますが、神さまの国は小さな「種」に秘められた生命力のように計り知れない勢いで進みます。このことを主は語り始められましたが、どのくらい群衆が理解していたかは分かりません。先ほど例に挙げた神学校入学以前の私のように、自分の好き勝手に御言葉を聞く自己中心的な者もいたかも知れません。そこで農業において働き手が寝ている間も、植物が根を深く伸ばしているように、神さまご計画は絶え間なく前進していることを、その御言葉が持つ「種」のような力として、主イエスは伝えようとなさいました。この地では日本の田植えのような、1つ1つの苗を土に刺していくような農業はしません。水を張り土に栄養を含ませ、完全な準備を整えてから植えるのではなく、ゴッホが「種を蒔く人」という絵で描いているように、袋に入った沢山の小さな種を、ドサッと一度に蒔くのです。遠くに飛ぶ種も近くに落ちる種もありますが、蒔く人に譬えられる神さまは、全ての種を等しい仕方で蒔くことを永遠に続けておられます。蒔いている間に道端に落ちた種は、鳥が来て食べてしまい育つことができませんでした。これは、悪い者が来て心の中から御言葉を奪い去ってしまった状態だと主は語られます。また石だらけで土の少ない土地に落ちた種は、根が伸びずに芽を出しても日が高く昇ると干上がってしまいますから、一度は喜んで御言葉を受け入れても、その言葉を実行するなかで苦しいことや迫害があると、すぐに躓いてしまう人のことのようです。そして、茨の中に落ちてしまった種もやがて茨が伸びた時には光を塞いでしまうので、やはり大きく育つ事ができません。御言葉を聞くことはするけれども、それを両手でしっかりと受け取ることが出来ずに、片手で受け取り、もう一方の手ではこの世の富や権力を握ったままでいるような人を指しているとも考えられますが、これでは折角まかれた御言葉の種も実を結ばず暗闇の中で窒息してしまいます。このように、受け取られる土地によって違った育ち方をする種は、良い土地に落ちれば何十倍にも増えると主は語られました。

この譬えをお話しになった後、弟子たちはイエスに、なぜ群衆には譬えを用いてお話しになるのかと尋ねます。そこでイエスは、「あなたがた」つまり弟子のあなたがたには、「天の国の秘密を悟ることが許されている」が、「あの人たち」つまり群衆には「許されていない」から、「だから、(わたしは、)彼らには譬えを用いて話すのだ。」と言われるのです。弟子たちが群衆と違う点は、いつもイエス様のお傍にいることでした。そして主の教えを信仰を持って聞くことができたので、漫然と聞く群衆とは、御言葉の受け止め方も違いました。多くの預言者たちが見られなかったけれども弟子たちが見たものは、口先だけの言葉ではなく、種蒔きの譬えが語っているような、神さまの義さを聞いて行い、実を結ぶ真実でした。このことを語っている主イエスこそ、父なる神の恵み深い招きに応答し、神の義を弟子たちに顕し、この世の地位や名誉とは無縁の低きに降られた、教会の頭なるキリストです。

「天の国の秘密」つまり『聖書』が証しする、神さまが権威のある言葉によってお示しになる御国の奥義は、信仰を持って初めてその人が受け取れるものなのだという、弟子たちへのイエスの返答は、片手間にではなく全身全霊で受け取る「真実」とは何かを必死に伝えています。それは、見ているようで真実を見ていない、聞いているようで真実を聞いていない『イザヤ書』の語る民のような人々には理解されないであろうと主は述べられました。

「イザヤの召命」において主が「誰を遣わそうか」とおっしゃった時に、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(Isa.6:8)とイザヤは迷わずに答えます。そして主は、頑なに主の教えを拒む心が固くなってしまった民を嘆き、その心の土壌がやわらかでないために御言葉が根付くことのない民の心の復興を、ご自分の選んだ者に委ねます。町が荒れ果て住む人もいなくなり、神を必要としない民を、神は見捨てません。町のほとんどの木は切り倒されるけれども、その中に「切り株」として残る、その僅かな残された者の真実から、ひとつの「若枝」が芽を出すとイザヤに説明します。

「人間は神なしで在ることがあり得る。しかし神は、人間なしになることは、あり給わない」という言葉をカール・バルトという神学者が遺しました。この時も主は悪の破壊の力に民を任せることはなさいませんでした。主の言葉は常に蒔かれ続け、ユダヤ人、ギリシャ人、そして異邦人たちの中から今も主を信じる者たちの集団を、新しい神の民として興こし続けています。そして今日ここでも、わたしたちを伝道の担い手として、強く召し出そうとしておられます。

 

先ほど祈りにも憶えましたが戦後75年を迎える今年、広島の原爆慰霊碑の前で広島市長と小学6年生の児童たちが平和宣言の冒頭で語った言葉に、「75年は草木も生えぬ、と言われていた此の地が、今は緑が豊かに茂っている」という表現がありました。今日は長崎の鐘の下で私たちも平和への祈りに心を合わせる日でありますが、主イエスの言葉は、水を含めば芽を出し、葉を生い茂らせ、人知では計り知れない未来を目の前に見せてくださいます。今見ている種の姿が、どんなに小さくとも、神さまは私たちが想像もできないような大きな希望を未来に見せてくださいます。十字架の出来事と復活の希望を語り継ぐことによって、わたしたちは時代を超え、主を信じるすべての民に対して、生き生きと主の平和を語り続けることができます。11人の民に悔い改めを促し、根底から民の心の土壌を耕すために、自分自身をささげることへと、主は今日も押し出してくださいます。その力強い御言葉によって、神の意のままに用いていただけることほど、わたしたちにとって幸いなことはありません。御言葉は、良い土地に落ちれば必ず実を結び、倍、倍に増えていくと主は約束されています。そして、主が「耳のある者は聞きなさい。」(13:9)と念を押しておっしゃるように、わたしたちは耳を神さまから造っていただいた存在です。この礼拝堂の中では、この耳を造られた方の耳も一緒にわたしたちの讃美の声を聴いてくださっているのです。わたしたちが主から語られるのに相応しい存在であるか無いかが問題なのではなく、信仰をもってそれを両手で受け取り、温めていく我々に主は、「あなたがたの眼は、見ているから幸いだ。あなたがたの耳は、聴いているから幸いだ。」(13:16)と繰り返し「幸い」を宣言してくださっています。この幸いに希望を与えられ、神の民として今ここから、新たに歩み出したいと願います。