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語り続ける書物

「語り続ける書物」                        左近 豊

 

昨年手に入れたまま、読めずにいた本をこの機会に紐解きました。『書物の破壊の世界史−シュメールの粘土板からデジタル時代まで』(フェルナンド・バエス著、紀伊国屋書店、2019年)というものです。

人類が文字によって言葉を刻むようになって以来、いかに数えきれないほどの書物や文書が砕かれ、燃やされ、切り刻まれ、シュレッドされ、あるいは破棄され抹消されてきたかを物語る700㌻を超える大著です。紀元前3000年以上前の古代オリエント世界の粘土板から、パピルスや羊皮紙、そして紙媒体を経て電子書籍やデジタル文書のデータ改竄や破壊に至るまで枚挙にいとまがないほどの書物の破壊の歴史に戦慄を覚えました。その中に、今日のエレミヤ書のことも含まれています。

この本の著者バエスによれば、書物の破壊の原因の6割は意図的、故意になされたもので、個人や集団の教養が高くなればなるほど、書物の抹殺に向かうというのです。用意周到で、頭脳明晰、完璧主義者で注意深く、並外れた知識を有して、抑制的な傾向を持ち、批判を受け入れるのが苦手で、利己主義で誇大妄想癖があり、中流以上の家庭の出で、権力を有し、カリスマ性を持ち、幻想に陥りがちな人たちが書かれた物を破壊してきた、と。書物を平気で燃やしたり、捨てたりするのは、憎しみに駆られて一時(いっとき)の感情からとか、自らの無知に気付かない無教養な人間がやることだというのは偏見で、むしろ書かれたものの持つ力をよく知っていて、文字が残り蓄積されるの恐れる、文字を知りつくし、文字を巧みに操る人たちの方が、むしろ積極的に書物を破壊してきた、と。そして共通して見受けられる書物破壊者の態度というのは、世の中の人間を、“彼ら”と“私たち”に区別する傾向だ、と。これが行き過ぎると“私たち”以外は全員“敵”となる。そういった他者否定の基準のもとで常に検閲は課され、知る権利は侵害されてきた、と。敵の書いたものは抹殺する、と。

 

 耳に痛い言葉を避けて、批判されることに、身をこわばらせ、耳をふさぎ、心を閉ざして切り捨て、聞きなれたぬるま湯のような心地よい言葉に浸かって、身内にのみ通用する言葉を饒舌に操り、積み上げてゆく誘惑に人は如何にもろいかを思わされます。そしてコロナウィルスの蔓延で一層閉ざされゆく世界にあって、あちこちで“彼ら”と“私たち”を隔てる壁は高められ、互いの溝は深められ、似た考え方や同質的な気のおけない“私たち”の枠がどんどん狭まって孤立を深めてゆく不気味な危うさにも気づかされています。

聖書は、そのような現代に向けて語り続けます。終始一貫して、「私たち」と「彼ら」を分断する壁を突き崩し、敵意という隔ての中垣を取り除き、新しい人につくりかえる十字架と和解の言葉を語り続けてきました。それは人間同士に留まらない、私たちと神との間の破れ目に立つ十字架の言葉なのです。的外れな歩みを続けて、ついには神と敵対し、預言者を殺し、独り子さえなきものにしてでも、今あるところにしがみつく人間が、そのまま滅びの道を転げ落ちることを望まない、神の、激しく迫りくる熱情をもった救いの言葉であり続けました。そのことを今日の箇所は今一度思い起こさせます。

 

エレミヤ書36章は、45章まで続く「バルクの巻物」と呼ばれる一まとまりの文書です。「ヨヤキム王の第4年」というのは紀元前605年に当たります。当時の新興勢力であったバビロニアが、もう一方の大国エジプトをカルケミシュという場所で撃破して、激動の時代に突入した年でした。バビロニアは、絶大な力で、価値観も文化も政治も経済も牛耳る新時代を作り上げてゆきます。新しい日常の幕開けに、書記官バルクという人物が、預言者を通して語られた主の言葉を、この巻物に口述筆記した、と。

この36章の書き出しを読んでみると、幾久しく、人々に「悪の道」から立ち帰ることを期待して「神の言葉」は語り続けられてきた、にも拘わらず、拒絶され続けてきた(36:2336:7)ことが分かります。少し前の26章でも、神殿に集まる人々全てに向かって「悪の道から立ち帰るかもしれない」と期待し、その罪と咎を赦し、災いを思い直す用意をもって語られる「神の言葉」があったことが述べられており、さらに「主の家」の「新しい門」で読み聞かせられたことが記されています。語られた「神の言葉」がどのように受け止められたかを、26章では、「都に敵対する預言」を理由にエレミヤの死刑を主張する者たちと、悔い改めて主を畏れ、恵みを祈り求めた者たちの姿が対照的に描かれます。み言葉は世に剣をもたらすのです。例えば、エレミヤと「全く同じような預言をしていた」預言者ウリヤが殺害されます。預言者エレミヤも次から次へと苦難に遭います(投獄、暴行、監禁(37章)、水溜への投下(38章)、強制連行(43章))。

 預言者として託された神の言葉を公に語ることを禁じられて、エレミヤは、書記官バルクを読んで、神から語ることを託された言葉を書き留めて、それを書物として、読み聞かせることを命じます。これは聖書の信仰に新たに大きな変化をもたらすものといえます。聖書の信仰の新時代の幕開けともいえるでしょう。それは、人間である預言から書物である預言へ、語る人物から語られる書物へと、「神の言葉」の担い手が移っていくからです。預言者が神の言葉を民に直接語ることができない状況におかれる(5節)。その場合でも、「神の言葉」は、書き記された書物が読まれるところで啓示される。このような状況は、ただエレミヤの時代という歴史の一時点に留まるものではなくて、むしろこれ以後のバビロン捕囚期、さらには紀元一世紀以降の、神殿や祭儀を失った共同体の状況にも意味を持ち続けてゆきます。その共同体で聖書が紐解かれ、語られるところに「神の言葉」の啓示を見る、聖書信仰の芽生えを、ここに見出すことができるのです。

巻物に余すことなく書き記された言葉は、神より発し(23節)、預言者を通して語られ(67節)、バルクによって書き留められ、朗読され(4、8、10節)、民、及びその支配者と対峙します。もはや預言者個人ではなく、書かれた「神の言葉」が人々の前に立つのです。王宮の役人達(12節。その内の何人かは、ヨシア王による「律法の書」の発見とその朗読に端を発した宗教改革の際に側近であった人たちの息子たちでした。列王記下22:12参照)は、立ち現れた「神の言葉」を前におののきます(16節)。そしてこのみ言葉を取り次いだエレミヤとバルクに自分たちも含めて誰も知りえぬ場所に身を隠すことを勧めるのです(19節)。エレミヤとバルクは隠れ、そのようにして語り手と書き手は表舞台から退いてゆくのです。けれども「神の言葉」は退くことなく、隠れることなく前面に進み出て、読み上げられ、王と対峙することになるのです。

「ペンは剣よりも強し」と言いますが、王はナイフで書物を切り裂き、火にくべ、焚書にし、耳に痛く、厳しく突き刺さり、けれども新しく生きなおさせる「神の言葉」を疎んじて抹消を企てます。「読み上げる」「読み終わるごとに」と訳されている語は(ヘブライ語のqr)は、王が暖炉に赤々と燃える炎の中に巻物をくべるために、3、4欄づつナイフで「切り裂いた」(qrと訳されている語と一字違いで発音は同じ、掛詞となっています。しかも読まれた言葉を聴きながら誰一人畏れを抱かず、衣服を「(切り)裂こうともしなかった」(qrと続きます。掛詞をたどってゆくと、朗読された「神の言葉」は切り裂いて焼き捨てる一方で、(自らの罪を悔いて)衣服を裂くことのない者たちの、神の前に畏れを知らない姿が浮き彫りになります。それはかつて神殿改修に際して巻物を発見し、その読まれるのを聞いて衣服を裂いた父王ヨシアとは対照的な姿です(列王下221011)。

「神の言葉」を灰にした王はさらにみ言葉の証言者たちの口を封じようとします。けれどもその真の源泉である主がエレミヤとバルクを隠されます。そして、燃やされた「巻物に記されていたすべての言葉」が、「元通りに」書き記され、さらに加筆までされるのです(36272832)。王の企ては空しく水泡に帰します。たとえ剣によって「神の言葉」を切り裂き、跡形もなく焼き尽くそうとも、預言者の口を暴力で封じ、筆記者のペンを折ろうとも、汲めども尽きせぬ「神の言葉」の源泉を止めることはできません。聖書を語り継ぎ、書き連ねてきたペンの強さは、託され語る証言者の信念や能力にではなく、神の断固たる裁きと救いの意志に基づいているのです。

詩編の詩人は聖書の御言葉に打たれながら、「あなたの言葉が開かれると光が射し/無知な者にも悟りを与えます」と証しました。新約聖書の手紙にも「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます」(ヘブライ人への手紙(4:12))と語られています。神の言葉を切り裂いて、罪悔いて衣を裂かない者たちに代わって、十字架でご自身の肉を裂き、血を流して贖いを成し遂げられた主イエスの十字架の言葉の前に、私たちは立ちます。礼拝において打ち開かれるみ言葉の光に照らされる時、私たちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされず、体を殺しても、魂を殺すことのできないものを恐れることなく、永久に立つ「神の言葉」に生かされて、神がどんなに偉大なことをしてくださったかを証言しつづけるものとされるのです。