ルカ7:1~10「これほどの信仰を」
2020年7月5日(左近深恵子)
主イエスは福音を宣べ伝える歩みをガリラヤの地域から始められ、カファルナウムの町を拠点に、町や村を巡られました。この地域で主イエスが人々を病や悪霊から解き放たれた出来事を、このところ礼拝で聞いてまいりました。これらの出来事に驚きを覚えながら、同時に、この数か月、私たちが味わってきた困難を思うのではないでしょうか。
新型コロナウイルスによって、恐れや不安、焦り、苛立ち、閉塞感に苛まれてきました。心身共に健やかに毎日を送ることの貴さを、つくづく思わされてきました。だからこそ、主イエスがなさった癒しや悪霊追放の出来事に私たちは目を見張ります。ともすると、それらの出来事の結果ばかりに目を奪われます。私たちは目に見える結果や、その量や質で、他者のことも、今の状況も、自分のことまでも計ろうとしてしまう者だからです。信じがたい、どこか羨ましい聖書の出来事を、その出来事だけ聖書から取り出して、計ろう、理解しようと、してしまいがちです。これらのみ業の前提にある主イエスのみ言葉から離れてしまうことにもお構いなしです。主イエスは、会堂の礼拝で聖書の言葉を説き明かされ、誰かの家や、戸外でも、人々に教えを語られました。言葉によって、神さまがご自分によってもたらされる神の国とは、神のご支配とは、どのようなものであるのか告げられました。そのご支配を示すために、驚くような業をなさいました。病の癒しや悪霊の追放によって、神さまが人の罪を赦され、ご自分との交わりに生きる命を回復してくださることを示してこられました。御業は、み言葉から切り離せません。各福音書は、主イエスが教えを語られたことと、癒しなどの御業をなさったことを、交互に、あるいは同じ出来事の中で述べています。そして主イエスの歩みは、十字架における死へと向かっています。主がなさった一つ一つの御業はみ言葉を表し、そして一つ一つの御業は、やがて成し遂げられる十字架と復活によって、完成されます。ガリラヤ地域での様々なお働きも、十字架と復活に至る歩みの途上にあり、主のみ言葉を土台にしています。一つの出来事、一つの数字にいともたやすく振り回されてしまう私たちですが、主イエスに出会った人々が主から賜った恵みをみ言葉によって見、そして十字架と復活から振り返り見ることで、私たちも受け止めることができるのです。
今日の出来事は、マタイによる福音書にも同様のことが記されています。マタイによる福音書もルカによる福音書も、主イエスがまとまった教えを人々に語られたことを伝え、その説教の後に伝えています。ルカによる福音書によると、主イエスはこの直前の説教において、神さまに従って生きるとはどういうことなのか、説いてこられました。この説教を聞きに集まってきていた人々は、神の民ユダヤ人です。私たちが旧約聖書と呼んでいる聖書に述べられている救いの歴史を受け継ぐ神の民であることを誇りにし、聖書に示されている神さまのご意志を大切にしてきた人々です。この人々は、主イエスの言葉と業に神さまからの特別な権威を見、主イエスを「主」と呼んで、教えや御業を求めてやってきていました。この人々に対して主イエスは、ご自分を「主よ」と呼ぶ信仰に真実に生きるということは、ご自分が語られた言葉を土台に据えて、その言葉によって生きることなのだと語られました。ご自分の言葉を聞いても、言葉において生きようとしない者は、土台なしで地面に家を建てる人のようだと、大水が襲えばその家はたちまち倒れ、その壊れ方はひどいと語って、説教を締めくくられました。人間の内側も、その奥深くまでもご存じである主は、濁流にこれまでの生活を足元から流されそうな困難の時にこそ、主の言葉を土台として、真に生きる者となることを願っておられます。順調な時だけでなく、厳しい現実に見舞われる時もまた、自分の力こそが自分を救うのだと傲慢になる罪の心が、私たちの中に巣くうことをご存じである主は、み言葉に自分自身を開き、み言葉に生きることへと招かれて、説教を終えられました。そしてカファルナウムの町に入られました。7:9で群衆が再び登場しますので、群衆も弟子たちと一緒に主の後に従ってカファルナウムの町に入り、その出来事の一部始終を見ていたことでしょう。
カファルナウムの町に入ると、ある百人隊長から遣わされたユダヤ人の長老たちが、主に会いに来ました。この隊長が重んじていた僕が病気で瀕死の状態となっており、主イエスに助けに来て欲しいと頼んだのでした。既にこの町で主イエスがなさった様々な癒しのことを、隊長は聞いていたのでしょう。
百人隊長とは、文字通り百人の兵卒を率いる隊長です。どこの軍人であるのか記されていませんが、おそらく領主ヘロデ・アンティパスの部下であったと思われます。異邦人の血筋も入っており、ローマ帝国の権威の下でガリラヤ地方を支配しているヘロデは、ユダヤの民衆と互いに反目し合う関係にありました。そのヘロデの部下であれば、この隊長もユダヤの民と対立していておかしくないのですが、この人は民と良好な関係を築いていました。異邦人と交流を持てば、その交流の仕方によっては汚れを負ってしまうので、ユダヤの民は普通は交流を持ちたがりません。しかしこの百人隊長は、ユダヤの民のそのような不安に配慮した行動が取れる人だったのかもしれません。ユダヤ人の長老たちは、しぶしぶではなく、進んでこの役目を担っており、主イエスに「熱心に願った」とあります。長老たちは百人隊長を「そうしていただくのにふさわしい人」だと力説します。なぜなら「わたしたちユダヤ人を愛」する人だからだと言います。支配者の側の軍人であり、異邦人でありながら、敬意に溢れた交わりを百人隊長はユダヤ人たちと持っていたのでしょう。この百人隊長の自分たちに向けられた「愛」を、長老たちは「会堂を建ててくれた」と説明します。会堂を建てることの困難さを、他の人々よりもよく知る立場に居る長老たちだからこそ、ユダヤの民にとってなくてはならない礼拝の場が、この人の多額の献金によって与えられたことに、深く感謝をしていたのかもしれません。異邦人であっても、この人は主イエスによって願いが叶えられるのに十分ふさわしい人だと、長老たちは熱心に口添えをしたのです。
この隊長は、支配する側とされる側、異邦人とユダヤの民という壁に捕らわれずに、ユダヤの民との関係を築く人でした。それは自分の部下に対しても示されています。部下と訳されている言葉は、僕や奴隷を指す言葉です。主イエスに家族や友人の癒しを求める人々は大勢いますが、この人は奴隷の部下の命が救われることを願っています。この願いを受け止めた主イエスは、長老たちと共にこの人の家に向かいます。しかしその近くまで来た時、百人隊長から遣わされた友達が現れ、「主よ、ご足労には及びません」と、「一言おっしゃってください、そうして僕を癒やしてください」と、隊長の言葉を伝えたのでした。
この展開に、百人隊長に対して疑問が湧いてくるかもしれません。“来てくださいと頼んでおきながら、近くまで来た今になって、なぜ来なくて良いと言うのか”と。“そもそも、頼みごとがあるなら自分で頼みに来れば良いではないか”とも、思うかもしれません。私たちの常識だけで測れば、これは失礼なことかもしれません。しかし友人が伝えた百人隊長の言葉に、この人の真意が表れています。この人は、自分は、自分の方から主イエスの前に出るにふさわしくない者だと知っていたから、主をお迎えには行かなかったのです。そしてお迎えに行くのにふさわしくないどころか、家の中にお迎えできるような者ではないと思ったから、再び友人を遣わしたのです。異邦人の家の中に主イエスが入ることによって、主イエスが汚れを負ってしまってはならないという、主イエスのための配慮もあるでしょう。しかし何よりも、主イエスの権威の前に自分はふさわしくない者であるということが、この人の行動を決定しています。長老たちは、この人の友情や敬意や会堂建設への貢献によって、この人を相応しいと思っています。しかしこの人はそのようなことをもってしても、自分は主の前に出るのにふさわしいものではないと知っています。相応しくないとは、聖書の知識とか、人間的な成熟さとか、宗教的な敬虔さとか、信仰共同体に対する寄与の度合いが不十分だということではありません。そういった面で度合いをもっと増したら、主イエスの権威の前に出るのに十分ふさわしくなるということではありません。神の民として生きてこなかったから、相応しくないのです。神さまからのお招きを受け入れ、割礼を受け、神の民に加えられる道も備えられていることを知りながら、そこまではしてこなかった自分が、神さまから祝福の源とされ、聖書のみ言葉を生き方の道標として歩む神の民の一人であるかのように、主イエスの前に出ることはできないとしています。神さまが神の民に与えてくださっている祝福とみ言葉による導きを、深く、重く認識しているからこそ、自ら主のもとに行くことも、家にお迎えすることも、到底できる者では無いと考えたのでした。
神さまが神の民に与えておられる祝福とみ言葉を、深く、重く捉えているこの人は、主イエスの権威も、深く、重く捉えています。大切な僕を救ってほしいから、主イエスに直接僕を診てもらい、手を触れて癒していただきたいと考えるのが、私たちの常識です。けれどこの人は、直接僕に会わなくても、その手で触れなくても、主イエスが望まれれば、その言葉だけで十分その権威を示すことができると信じて、「一言おっしゃってください」と願います。「ただ、お言葉をください」との訳もあります。たった一言主イエスが言葉を与えてくだされば十分だと確信しています。言葉が何か魔術的な力を発揮すると言うことではありません。主イエスの言葉があれば、主イエスの存在は特に必要ないと言うのでもありません。町や村で一人一人に語り掛け、その一人一人を苦しみから解き放ってこられ、今自分が住むこの町に来てくださり、今自分の願いを受け留めて、自分の家に向かってくださっている主に、堅く信頼しています。架空の人物ではなく、天上にのみおられる方でもなく、世に降られ、人となられ、人間と同じ肉体をとられ、人々と同じように日々地上を歩み、人の苦しみをはらわたを痛めるようにして受け止め、人が見据えることもできない罪と死の苦しみからの救いをもたらしてくださるイエス・キリストです。この主イエスに、そこらの奇跡行為者とは違う、真の権威があることを、この人は受け止めていたのです。
この隊長自身が、権威の力を知っています。100人の部下の生死を左右する命令を与え得る権威を持っています。その命令が部下たちに対して力を持ち、部下の命を守ることができるのは、この人の権威が領主ヘロデから与えられており、究極にはローマ皇帝から与えられているからです。しかしそのような権威をもってしても、瀕死の状態の部下を救うことはできません。ヘロデや皇帝に遡っても、誰もこの僕を救う力を持っていません。ただ主イエスにのみ、その権威があると、主イエスこそ、本当に人を救う権威を持っておられる方であると、信頼しています。人にはそれぞれ素晴らしい力が与えられています。しかしどのような力をもってしても、人はたった一人の人間すら本当に生かす力を持たないことをこの人は知っていました。だからひたすら、救いを神さまに、神さまの権威を伴っておられる主イエスに、求めました。このひたすらな信頼を主イエスは喜ばれ、従ってきていた群衆の方を振り向いて「これほどの信仰は見たことが無い」と褒められました。ルカによる福音書において、この人は主イエスに直接お会いすることも、話すこともないままです。それでもこの人は、主イエスに出会った一人と言えるのではないでしょうか。主イエスが語られた言葉、なさったことを深く受け止めることによって、直接お会いできなくても、これほど深く、主の言葉がその権威を担うことに信頼するに至ったのです。
私たちも、主イエスに直接お会いすることも、直接お話することも叶いません。しかし神さまの言なる御子イエス・キリストには、神さまの権威が共にあることを、神さまのみ前に出ることができない私たちのために、人となられ、命まで捧げて、神さまに至る道を切り開いてくださったことを知っています。このキリストによって、神さまに生かされる命を生きる救いが実現されました。聖餐は、その救いに与るしるしです。み言葉は、この救いの御業を私たちに告げます。み言葉を通して、聖餐の恵みを知ることができます。この食卓に着くのにふさわしい者など、誰もいません。ただ主イエスの救いによります。み言葉によって、救いへと招いてくださっている主の招きを知ることができます。主に生かされる命を生きる道が与えられていることを知ります。み言葉によって、私たちの隣人のためにも、主がこの道を与えておられることを知ります。百人隊長の、主イエスのたった一言を願い求めた信頼と、部下の癒しを求めた愛に生きる心に、私たちも生きたいと願います。