「神の聖者」ルカ4:31~41
2020年6月14日(左近深恵子)
この数カ月間、共に集って礼拝をささげられることの貴さを、改めて気付かされてきました。感染の状況は、今後も注視をしなければならず、暫くの間簡略化された短めの礼拝をささげます。先週の聖餐も、配餐をしない形で行いました。子どもたちの分級も、朝の学びの一時も、控えています。既に延期となった教会修養会やコンテンポラリー礼拝をいつ行うことができるのか、まだ予定を立てられる状況にありません。定期的な集会や、実現を願ってきた特別な礼拝、特別な学びの機会をしばらく延期せざるを得ないのはとても残念なことですが、今は、教会に共に集まって礼拝を守れることの喜びを噛みしめています。可能な方たちと礼拝に集い、なお続く不安の中にあって、教会に集うことができないお一人お一人のために、また世の人々のため、執り成しの祈りを祈る教会の大切な務めを担うことに、一層心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くす時です。礼拝は、私たちの一週間の始まりであり、私たちが帰るところであり、私たちの日々の核となってきました。これからも、礼拝に来ることのできる方も、今はまだご家庭で礼拝の時を守っておられる方も、病床や療養の場で祈りを合わせておられる方も、ここで捧げられる教会の礼拝が日々の核となるのです。
主イエスのお働きの前半は、ガリラヤの地域でなされました。福音を宣べ伝えるお働きを始められたこの頃、お働きの核は会堂で捧げられる礼拝にありました。町や村の会堂の安息日の礼拝で語っておられました。やがてユダヤ教の指導者たちからそのお働きが疎まれるようになり、会堂で語ることが難しくなると、建物の中だけでなく、湖岸や山など、様々な場で語られるようになりますが、それまでは、諸会堂の礼拝で人々を導かれました。聖書を通して私たちは、主イエスが福音を宣べ伝えられた時に何が起きたのか、知ることができます。主イエスは今日の場面のように、多くの人から悪霊を追い出されたり、病を癒されたりしています。これらのお働きは、主イエスが礼拝で語られたことと切り離すことはできません。主イエスのお働きの核は、礼拝を土台として福音を宣べ伝えることであり、悪霊の追放や癒しは、主イエスがどのような方であるのか、主イエスが告げておられる福音がどのようなものであるのか、示します。
主イエスがガリラヤで福音を宣べ伝え始められた時、その評判は周りの地方一帯に広まったと、ルカによる福音書は伝えます。特に今日の箇所のカファルナウムでの出来事が人々の評判となったようです。故郷ナザレの会堂で、主イエスが人々に、「きっと、あなたたちは、私がカファルナウムでいろいろなことをしたと聞いていて、郷里のここでもしてくれと私に求めるに違いない」(4:23)と言われる場面がありますが、それは今日の箇所のことを指しているのかもしれません。
ガリラヤ湖畔にあるカファルナウムは、この後主イエスのガリラヤでの活動の拠点となってゆく町です。次週の礼拝で共に聞きます中風の人の癒しも、このカファルナウムの町の出来事です。漁業が盛んで人々が行き交う街道のそばにあるこの町にも礼拝のための会堂があり、安息日には多くの人が集っていたようです。
その日、主イエスが加わられたことで礼拝は一変しました。いつものような礼拝を想定していた人々は、「その教えに非常に驚いた」とあります。聖書の説き明かしをされる主イエスの言葉を聞いた人々は、強く打たれるような衝撃を受けました。それまで何度も聞き、何度も思い描いてきた聖書の情景が、主イエスの言葉によって、その深さ、広さが示されました。この時聖書のどの箇所から何を教えられたのかは、記されていませんが、人々が驚いたのは、主イエスの言葉に権威があったからだと、語られています。
人々の反応は、主イエスが幼少期から過ごしてきたナザレの町で福音を宣べ伝え始めた時の、人々の反応を思い起こさせます。主イエスが聖書から預言者イザヤの言葉を読み、その説き証しをされた時、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い」た(ルカ4:22)とあります。人々は、主イエスの姿や立ち居振る舞いにではなく、その口から出る言葉が恵みに溢れていることに驚きました。カファルナウムでも同じです。人々が驚いたのは、何よりも主イエスの言葉でした。人々が礼拝でこれまで説き明かしを聞いてきた他の教師たちとは違う、ただならぬ権威がその言葉にあると、驚きました。例えば律法学者は、律法についての深い知識によって人々に語ります。彼らが教えを語る時に頼るのはそれまで他の学者たちによってなされてきた研究と自分が積んできた研鑽です。主イエスも、12歳の時に神殿で学者たちを相手に、話を聞いたり質問をし、その賢い受け答えに学者たちが驚いたと記されているように、学者以上に聖書を深く知る方です。しかし主イエスは学者たちのように、他の学者の権威と自分の知識を土台に語られるのではありません。マタイによる福音書の「山上の説教」と呼ばれる箇所で、主イエスの教えを聞いた人々の反応が記されています。人々はその教えに非常に驚いたと、なぜなら「律法学者のようにではなく、権威ある者として教えになったからである」(マタイ7:29)と記されています。主イエスの教えに伴っている権威は、どのような専門家も持ち得ない、神さまご自身の権威であるのです。
福音書は、主イエスが礼拝で語られる言葉によって、人々が驚きを与えられ、心が揺さぶられたことを、繰り返し述べます。時を隔てて私たちも今、主の招きに応えて、主のみ前に進み出ています。主がこの礼拝の中におられるということは、聖書の恵み深い言葉が、私たちの心を揺さぶることを願うことができるということです。自分の中の知識や経験に頼りたくなる思いや、他者の中にある自分にはない知識や経験に頼りたくなる思いは、誰の中にもあることでしょう。けれど私たちの不完全な知識や経験も、み言葉を説き明かすことに用いてくださる主こそが、私たちの拠り所です。主の権威に信頼し、み言葉に深く耳を澄ます私たちの心の扉を、主はみ言葉によって叩き、私たちを揺さぶり、心の内に振動を起こしてくださるでしょう。
カファルナウムの会堂でこの日、最も主イエスの言葉に衝撃を受けたのは、人々ではなく悪霊であったことを、聖書は伝えます。人々は、主の言葉に驚きました。主を誉める人々もいたかもしれません。けれど悪霊ほどの衝撃を示す人はいません。悪霊は取りついていた人を通して、大声で主に向かって叫びます。「ナザレのイエス」と主イエスの名を呼ぶことで有利に立とうと、必死です。その悪霊を主は、「黙れ、この人から出ていけ」と、追放されます。
その日、礼拝の後、シモンの家にお入りになった主は、高熱で苦しんでいたシモンのしゅうとめも癒されます。「熱に苦しんでいた」と訳された言葉には、「捕まえておく、閉ざす、塞いでおく」といった意味があります。そこから苦しむ、病に罹る、悩まされるという意味でも用いられます。病に捕らえられ、神さまとの交わりからも、人々との交わりからも閉ざされていた一人の婦人を解き放たれたのです。するとこの婦人はすぐに起き上がり、それまでどんなに願っても実際に自分がすることのできなかったことを、つまり主イエスの一行をもてなすことを、始めました。この婦人のもてなしは、結果として主イエスのみ言葉を宣べ伝えるお働きに仕えることになり、主に従う人々を支えるものとなりました。主イエスによって閉ざされていたところから解き放たれたこの人は、神さまから与えられている賜物を、主と人に仕えるために活かす者となれたのです。
やがて日が暮れると、病気で苦しむ者を抱えている人々が、大勢、病人たちを主イエスのもとに連れてきました。その日の会堂での出来事やシモンのしゅうとめになさったことを知り、誰かを運ぶような行動が制限されている安息日が終わる日暮れを待っていた人々が、家族や友人を連れてきたのでしょう。悪霊によって苦しんいた人々もいたようです。ここでも悪霊が主イエスによって追放されます。悪霊はわめき立て、「お前は神の子だ」叫びながら人々から出て行ったと、悪霊は主イエスがメシアだと知っていたとあります。
会堂でそうであったように、シモンの家でなされた癒しの数々においても、主イエスの到来に最も衝撃を受けているのは悪霊です。人々は主イエスの言葉に打たれ、他の人にはない権威が主と共に在ることに気づき、癒しに喜んでいますが、主がどなたであるのかは分かっていません。この日主がどなたであるのか分かっていたのは、悪霊だけです。主イエスは、神さまが遣わされた聖者であると、神のみ子であると、神さまが約束してこられたメシアだと、悪霊だけが気づいています。主イエスの到来によって新しい時がもたらされたのだと、主イエスの権威とお力は決定的なものなのだと、神さまの救いが今や世にもたらされたのだと最初に理解したのが、人ではなく悪霊であるところに、人間の現実が現れているように思います。
悪霊と聞くと、私たちは戸惑います。聖書の中でも悪霊の描かれ方は一様ではありませんが、全体的に言えるのは人を自分や他者を傷つける方向へと追いやるもの、肉体的、精神的な病を起こさせるものであるということでしょう。カファルナウムの会堂で主イエスから追放された悪霊は、この人を悪霊の代弁者としていました。人から、その人が本当に語るべき言葉を奪ってしまう力、神さまのみ心に背き、神さまの御業である自分の存在も、他者との関係も、破壊しようとする力として登場しています。悪霊はこの人を、肉体の生命は保てていても、この人を本当に生かす方である神さまから、遠く離れた者としてしまっています。そのような悪霊にとって、神さまの権威が示されることが最も恐ろしいことでした。人は自分が神さまに背く思いに流されている現実を、神さまではないものを神さまよりも強い権威を持っているかのように頼ってしまっている現実を、なかなか見ることができません。だから、神さまのお力を恐ろしいとも思いません。悪霊は、自分が何をしているのか知っているから、自分よりも神さまのお力の方が勝ることが明らかになってしまうから、神さまを恐れます。ここに、人々よりも、弟子たちよりも、悪霊が、主イエスがどなたであるのか真っ先に気づいた理由があるのでしょう。「黙れ、この人から出ていけ」とお叱りになる主イエスの言葉に、巧妙に人々を恐怖で支配する悪霊の力から、人を解き放つことを願う主イエスの御心が表れています。この主の御心を、私たちは自分の心からの願いとしてどれだけ持っているのだろうかと、考えさせられます。
主イエスは福音を宣べ伝える前に、聖霊に導かれて荒れ野の中で40日間、悪魔から誘惑を受けられました。その時に悪魔は主イエスに世界の全ての国々を見せて、こう言いました、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、みんなあなたのものになる」(4:6~7)。権力や繁栄は、用い方によっては人々を守るのではなく、傷つけるものとなります。そしてこれらは、神さまに背く力も利用できます。悪魔は主イエスに権力や繁栄を与えることで、主イエスを支配しようとします。しかし主は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と、申命記の言葉をもって退けられます。主のお力は神さまから来るものであり、主が全ての上に立つお方であり、主が悪魔から力を受ける必要はありません。罪の力、死の力に捕らえられている人々を救い出し、神さまの赦しと祝福の内に生きる者とするために来られたイエス・キリストは、荒れ野でも、カファルナウムでも、先ずご自身が神さまに背く力と闘ってくださり、勝利してくださったのです。
会堂で礼拝をしていた人々の只中で、一人の人が主イエスの権威と力に満ちた言葉によって浄められ、一度倒れ伏し、そこから立ち上がる者とされました。この一人の人に起きたことは、主イエスが共におられる礼拝において、私たちにも起こり得ることです。神さまではない力に囚われ、不安と恐れに囚われ、自分の語るべき言葉を語れずにいるところから、主の言葉によって自分の罪を示され、打ち倒され、主のもとへと、主にある交わりの中へと立ち返る道は、十字架と復活という決定的な御業によって、既に開かれています。主のみ言葉によって、日々新たに主のもとへと立ち返ることができるように、祈り求めます。