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新しい誕生

 

ヨハネ3115「新しい誕生」

 

202067日 左近深恵子

 

 

 

教会の会堂で皆さんと共に集うことができる日を、多くの方がどれほど待ち望んでこられたことかと思います。今日、数か月ぶりにこの会堂でご一緒に顔と顔を合わせて礼拝をささげる恵みを与えられた方々がおられることを感謝いたします。会堂での礼拝を心から願いながら、今日もご家庭で礼拝を守るとの判断をされた方々も多くおられます。どのような判断をなされても、主がその決定に共におられることを信じ、それぞれの礼拝の時を、主の平安で満たしてくださるようにと祈ります。

 

 

 

感染の不安を全く抱かずに教会に来られる状況ではない現実が、なおも続いています。多くの地域では更に厳しい現実が続いています。新型コロナウイルスの感染が広がる前から、私たちはそれぞれ多少なりとも困難を抱えながら日々を送っていました。そこに感染による影響が重なり、既に抱えていた困難が増幅された方もいるでしょう。世界でも日本でも、多くの方がこの感染症によって生命と身体を蝕まれました。自分や自分の大切な人々に、ずっと先ではなく今、死が訪れるかもしれないと、死の力はこんなにも身近であったのかと、消えない不安を抱え続けています。共に豊かな時間を過ごしてきた親しい人々、自分の生活の様々な場面で支えとなってくれていた信頼する人々との関係が、感染予防のために遠ざけられてきました。互いの間にある違いが深刻な対立となって、痛ましい出来事も起きています。当然のように思ってきたつながりや支えが遠いものとなる中で、感染症によっても、それによって引き起こされる分断や対立によっても奪われない確かなものは、どこにあるのでしょうか。それは私たちの中にあるのでしょうか。感染症の影響力を示す数値に一喜一憂しがちな日々です。感染症と死の力が形を変えながら影を落とし続けていく日々を、私たちはどのようなしるしを拠り所として歩もうとしているのでしょうか。

 

 

 

神さまの御心を示す出来事が、聖書ではしるしと呼ばれます。ヨハネによる福音書では、主イエスがなさった業がしるしと呼ばれ、主イエスが神さまのみ心を実現する方であることが示されます。ヨハネによる福音書の最初のしるしは、ガリラヤのカナという地の婚礼の場で行われました。浄めの水が新しい良いぶどう酒に変えられ、祝いの席に欠けてしまっていたものが、主によって決定的に満たされました。弟子たちはその御業を見て、主イエスの驚くべきお力は神さまから来るものであると主イエスを信じ、主イエスに従う者となりました。けれどこのしるしは主イエスのお力が神さまから来るものであることを示すだけでなく、主イエスによって神さまがもたらしてくださる神の国の祝宴を示されたのだと弟子たちが知ることができるようになるのは、ずっと後のことでありました。

 

 

 

次にしるしが述べられるのは、エルサレムの神殿を商売の巣にしていた商人たちを追い出した時でした。商人たちを追い出すことは、神殿のそのような在り方を黙認してきた神殿の指導者たちの在り方も退けるものでしたので、「こんなことをするからには、どんなしるしを見せるつもりか」と人々は主に詰め寄りました。その人々に主は「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われます。この荘厳な神殿を建てるのに46年もかかったのにと、人々も弟子たちも主イエスの言葉の意味を理解することはできませんでした。主イエスはこの時、神殿が復活されたご自分の体によって置き換えられることを示されたのだと、それまで神の民は、神の臨在の場である至聖所とその周りの神殿を中心にしてきたけれど、民のために死んで、葬られ、三日目に復活された神のみ子が、今や民の中心となられたのだと弟子たちが理解したのは、主イエスが死者の中から復活されてからのことでした。

 

 

 

ご自分の言葉やしるしを理解できず、ただ業の素晴らしさに驚嘆している人々や弟子たちに対して、主イエスはその後も語り続け、しるしを行い続けました。主イエスがこの時エルサレムでどのようなしるしをなさっていたのかは、神殿から商人を追い出された一件以外には具体的なことが記されていないのでわかりませんが、「そのなさったしるしを見て、多くの人が主イエスの名を信じた」とあります。「しかし主イエスご自身は彼らを信用されなかった、それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。主イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(22325)とも記されています。人の内側を他の誰かに証ししてもらう必要が全くないほどよくご存じである主は、ご自分を驚嘆の眼差しで見つめる人々がどのようなことを期待して見ているのか見抜いておられ、人々がご自分を信じたいように信じるに任せることはされませんでした。人間の現実を人間よりもはっきりと見つめておられる厳しい眼差しと、人間が気づけない、求めることもできないでいるものを与えようと、差し出し続ける主のお姿を、聖書は証ししています。

 

 

 

そのようなある日の夜、主イエスのもとに、ニコデモという人が訪ねてきました。ニコデモはユダヤ教の主流をなすファリサイ派に属し、ユダヤの最高法院の議員の一人であり、おそらく律法の教師でした。錚々たる肩書を持つまでに至ったニコデモは、有能で、人々から信任厚い人物であったのでしょう。主イエスの言動を批判してきた神殿の指導者の側に属していながら、主イエスの言葉やしるしを見聞きするうちに、どうしても直接話がしたいとまで願うようになったようです。主イエスに対してなされた丁寧な挨拶から、ニコデモが主イエスに十分に敬意を表していることが分かります。しかしこの人が何を聞きたくてやって来たのかは、この挨拶からはよく分かりません。この人自身も、主イエスから何を得られるのかよく分かっていなかったのかもしれません。ニコデモは、エルサレムの他の人々と同じでした。主イエスのしるしを表面的に見て、主イエスを知ったつもりになっている、しかし主イエスのしるしの意味も、自分自身も、本当のところ見てはいないのです。

 

 

 

それでもニコデモが他の人々と異なるのは、主イエスの所にやって来たというところです。そしてこの日が、ニコデモのその後の人生の分岐点となったのでしょう。ニコデモはこの後二度この福音書に登場します。第一の場面では、主イエスを逮捕しようとする他の議員たちに異議を唱えています。第二の場面は、主イエスの十字架の死の後です。主イエスの遺体を葬るために没薬と沈香を持ってきて、主イエスの弟子でありながらユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフと共に埋葬しています。ニコデモの社会的な立場からすれば非常に勇気の要る行動へと向かっていく分岐点となったこの晩の訪問を、ニコデモに決意させたのは、人々の内側にどのような思いがあるのか全てをご存じでありながら、人々を見捨てず語り続け、しるしを行い続けられた主イエスであったと言えるでしょう。

 

 

 

ニコデモが昼間ではなく夜、主イエスのもとを訪ねてきたのは、主イエスを訪問する自分の姿を他の人々に見られたくなかったからかもしれません。主イエスを批判する側にいながら、主イエスの話を聞きにやってくる、曖昧な自分の状態を、太陽の光の下で主イエスに見られたくなかったのかもしれません。訪問してみようか、いや、やはり止めた方が良いだろうかと迷い、眠れない夜を過ごしていたのかもしれません。夜の暗さと、ニコデモの内なる視界の暗さが重なるようです。ニコデモには主イエスがどなたであるのか、主イエスのしるしが何を意味しているのか、自分が何を求めるべきなのか、見えていません。主イエス言葉とのしるしに示されている神さまのご意志を見ることができずにいるから、神さまの眼差しを通して自分の実態を見ることもできずにいるのです。

 

 

 

主イエスは、ニコデモの内側を見通しておられます。ニコデモに必要なものを、主イエスの方から「はっきり言っておく」と強い口調で、こう告げられます。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(33)。新たに生まれなければと言われても、もう一度母親の胎に戻って生まれ直すことなどできないと理解できずにいるニコデモに、主イエスは再び「はっきりと言っておく」と言われ、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(35)と、新しく生まれることの意味を更に告げられます。

 

 

 

ニコデモはそもそも、新しく生まれたいと思って主イエスを訪ねたわけではなかったでしょう。律法が定める正しい生活を注意深く積み重ねてきたニコデモは、自分の生き方にプラスになる何かを主イエスから得たいとは思っていたでしょう。それは自力で一歩一歩階段を上るようなニコデモの人生の歩みに、手すりを付けるようなこと、あるいは踏み台を足すようなことであり、ニコデモが主イエスに抱いていたのはその程度の期待であったでしょう。この階段がいつかは神の国に届くことを期待しながら、足元の段差や、上り方を評価してくれる他者の視線ばかりを見ているニコデモに、主イエスは、今、この時、神の国を見ることを教えます。ニコデモは、神さまのご支配よりも、自分の命を自分の目標や思いで支配できる世界の中で上昇することを求めていました。上昇は望んでも、自分の生き方を大きく変えることや、今手にしている何かを失うことは望まなかったから、夜の闇に紛れて主イエスを訪問したのかもしれません。主イエスはニコデモを、ニコデモが上っていると信じている階段から、主イエスの命の値によってもたらされる新しい命を、主に従って生きる道へと招きます。主イエスご自身がニコデモも含めたすべての人の罪を取り除く小羊として十字架に上げられ、死者の中から上げられ、天に挙げられることで天と地を結ぶ階段となってくださる道へと、招きます。

 

 

 

新しい命、永遠の命とは、遠い先の未来においていつか訪れることを望むものではありません。不老長寿を手に入れることでもありません。神さまが共に居てくださることに終わりが無いということです。共に居てくださる神さまのご支配の中で生きていく命です。この新しい命は、人の理想や欲が支配する道ではなく、キリストが通してくださった道を求めます。キリストが通してくださったのですから、私たちの視界が狭まってしまっても、曇ってしまっても、私たちは羊飼いなる主に従って、道を見出すことができます。私たちは道すがら、現実のただ中で働いておられる神の御業を共に喜び、私たちのために祈っておられる主によって、互いに祈り合いながら、共に進むことができます。洗礼に置いて水と霊を受けた者は、この新しい命に既に生かされています。日々聖霊を受けて新しくされ、聖餐の恵みによって養われつつ、神さまが永久に共に居てくださる命を、いただいています。

 

 

 

私たちにはそれぞれ切実な願いがあり、不安があります。願いが叶えられること、不安が取り除かれることを、日々祈り求めています。欠けを満たしてくださいと祈り、不安の原因を取り除いてくださいと祈るしかありません。けれど主イエスによって神さまが私たちにもたらしてくださっているご支配は、私たちのその時その時の願いや不安を超えた確かなものであることに、私たちは心の奥底で支えられています。たとえ私たちの願い通りに欠けが満たされることが無いとしても、あるいは願い通りに不安の源が取り除かれることが無いとしても、私たちを覆う死の力を滅ぼされた主が共におられる命を、既に生きていることが、私たちに深いところで安らぎをもたらします。神さまのご意志よりも、他のものに自分を支配させてしまう罪は執拗に私たちを捕らえますが、私たちのために御子が命をささげて切り開いてくださった道へと、み言葉と御業に導かれ、聖霊に導かれて、立ち返ることができます。私たちは欠けに嘆き、不安に苛まれる日々を幾度も潜り抜けなければならないのかもしれませんが、状況の厳しさに阻まれない、一時的な気休めではない、主の平安が常に私たちを覆っています。私たちの中心におられる主イエスを共に礼拝し、神の国の祝宴の席を示す聖餐の食卓から霊の糧をいただきながら、死によって終止符を打たれることの無い神さまの恵みの中を、共に歩んでいきたいと願います。