創世記12:1-6、ローマ4:13-17
「人生は思い通りになるか」
昔は引佐郡と言ったがおそらく今はもう市町村合併で浜松市になっているその地に、老人ホームや障害を持つ子供たちの施設など様々な施設が結集された聖隷福祉事業団という巨大な福祉施設がある。ご存じの方もあるだろう。もう三十年近く前になるが、その頃私は夏になると、近隣の教会学校の奉仕者たちと一緒に中高生を連れてワークキャンプを行っていた。その中に、重度心身障害者の世話をする「おおぞらの家」という施設がある。初めてそのキャンプに参加した時、私に割り当てられた施設がそこであった。その時の衝撃を私は今でも昨日のように覚えている。その施設の入所者たちは動くことも出来なければ話をすることも出来なかった。スタッフからは、その子たちと交わって下さいと言われたのだが、私の班に割り当てられた中高生達は皆、押し黙って立ちすくみ、近寄るどころかむしろ後ずさりしていた。その重苦しい空気感を少しでも想像してみていただければ幸いである。リーダーである私までがそうするわけにはいかない、などと言ういきがった思いはなかったが、何も考えずに私は一番大きな子供の前にあぐらをかいて座った。そしてその子の目をじっと見つめた。なるべくその子の気に障らないように、である。10分、15分、次第にその子はじっと見つめる私に不安を感じ、泣きそうな表情になった。尚更のこと私は出来る限りの穏やかな眼差しを向けながら、「大丈夫だよ」と声をかけていた。すると突然、その子が大声を上げながら私に抱き着いて来たのである。私は驚いた。しかしその声は直ちに笑い声に変わった。「自分のような者がその子に受け入れてもらえた」。それが分かって私も嬉しくなった。その子は、人生を思い通りにしたいなどという欲望さえ持てなかったと思う。しかし見た目はどうであろうとも、社会からはどう見なされていようとも、どんな人間も喜びをもって生きたい、生きようとしている、そのことを学ばされた。
その一方で、何不自由なく社会で暮らしている者たちはどうであろうか。人生を思い通りのものにしたい。そう思う人間は少なくない。100%思い通りになることは無理だとしても、せめてこれだけは自分の思い通りになって欲しい。そう思う人間が殆どではないかと思う。若かった頃は別にして、ある時からは思い通りにはならない人生ばかりを歩んできた私には何も語る資格などないのかもしれないが、人間は大きく分けて二つのタイプに分かれるように思っている。一方では、自分の願いを叶える為、自分の人生を思い通りのものとする為に、何が必要か、どんな手を打っておくべきか、といったことばかりを思い煩い、その為ならば手段を選ばない人たちがいる。何が何でも選挙で当選したい政治家や、あの手この手を使って金を騙し取る為には手段を選ばないオレオレ詐欺の加害者達も似たような部類になるのかもしれない。
その一方で、願いは持っているけれども、あくまでそれは願いであって、適うかどうかは自分で決められることではない、あくまでそれは結果として着いてくるものだ、と考える人たちもいる。勿論、努力はするけれども、それがが結果に結びつくとは限らない。しかし、たとえ努力が結果に結びつかなくても、挑戦し続けなければならない、とその人たちは考えている。パラリンピックの選手や高校の部活で鍛えられている者たちの中にはそのような考え方を持っている人が多いのではないだろうか。
もう二年前になるだろうか。神奈川県の津久井やまゆり園で悲惨な事件があったことをご記憶の方も多いだろう。あの事件の直後、障害を持つ方々の生きる意味や生きる権利ということについて、我々は随分と考えさせられたように思う。先ほどのおおぞらの家の話ではないが、障害を持っておられる方々も健常者と変わることなく、喜びをもって生きていくための「願い」を抱いておられると思う。たとえそれがどんなに実現困難な願いであるにしても、自分の心に願いがある、希望がある、それ自体が素敵なことではないかと思う。中には、今日一日を生きることさえ、健常者には想像もつかないほどの気力と勇気と我々の何倍もの努力をしなければならない方がおられるだろう。現実的には何も出来ないままその日一日が終わってしまうことの連続かもしれない。それでもその方達は懸命に生きようとしている。そのこと自体に大切な意味があるのではないか。生きる資格、チャンスは誰にでも平等に与えられているのではないか。あのやまゆり園での凶悪犯罪の実行犯のような、最近で言えば、LGBTの人は生産性がないと豪語した政治家のような、役に立たない人間はこの世には必要ない、という人間の考え方は、自分の人生を自分の思い通りに出来ると思い込んでいる人間の傲慢さから生じてくるものではないかと思う。
そこで、人間としての原点に立ち返るべく私達は、イスラエル民族の先祖として知られるあのアブラハムの生涯について考えてみたい。アブラハム、まだアブラムと呼ばれていた頃であったが、彼はある日突然神の声を聞く。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」「生まれ故郷、父の家を離れる」というのは、今あなたが手放したくないと思っている全てのものを捨てる、という意味に近いように思う。しかもその時神がアブラハムに告げた、「わたしの示す地」というのがどこなのかは、その時点では全く分かっていなかった。後の方で、彼が「カナン地方に入った」と確かに説明されてはいるけれども、それはあくまで結果としてそうなっただけのことであって、最初から「カナン地方を目指して」旅立ちを決意したわけでは決してなかった。
もう既にこの時アブラハムは七十五歳であったと言う。決して若くはない。それなのになぜ、行き先も分からないまま旅立つことが出来たのか。「わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」。確かに神はそう告げてはいた。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」確かにそう告げられていた。しかしそれが何を意味するのか。祝福とは何であるのか。この時のアブラハムには全く分かっていなかっただろう。なぜ自分が祝福の源になるのか。なぜ地上の氏族が自分によって祝福に入るというのか。何も分かっていなかっただろう。それなのに、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と聖書は伝えている。このことにこそ、大切なメッセージが込められているように思う。先が読めたからではない。安全であることが分かったからでもない。何も分からないまま、先も読めないまま、そうであるにもかかわらずに旅立つ。この一点に、聖書の奥義がある、と言っても良いと思う。自分の不安や思惑は後回しにして、もしかしたら安全から危険の中に飛び込むことになるとしても、神の言葉に従ってアブラハムは旅立つのである。まさに自分の思い通りの人生ではなく、思い通りにはならない人生へと旅立つのである。どうして彼にそんなことが出来たのか。無難に生きたいならば旅立たないことを選ぶに決まっている。なのになぜその彼が旅立ちを決断したのか。それは外から、アブラハムに旅立ちの決断をさせる何かがこの時、働いたに違いない。言葉では説明できないその何か、目にすることも出来ないその何かこそが神の働きかけであると、聖書は今、我々にそう語りかけているように思う。
そのことを新約聖書では、パウロという人がロマ書の中でこう説明していた。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」ここでは、「地上の氏族はあなたによって祝福に入る」というあの神の約束が、パウロによってこのような言葉へと言い換えられている。そしてパウロは、その約束は律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた、と説明を加えている。律法。本来それはその昔、神からモーセを通してイスラエル民族に与えられた十戒を中心とする神の教えであった。パウロの時代、この律法は文字としてまとめられていた。しかしながら、心の中では違うことを考えていても、文字に書いてある通りのことをすれば、あなたは律法を守ったと判断が下されることになっていた。ということは、である。文字通りに規則に従ってさえいれば神の約束はその人において実現する、とも読めてしまう。思い通りの人生を手に入れられる、とも読めてしまう。パウロの時代、実際にそのように考えて神の約束を掌の中に納めようとした人間が少なくなかったのである。そうではないのだ、とパウロは訴えたかった。「律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのだ」と彼は書いた。「信仰による義」とは何か。律法は、文字通りに従えば人間にも実現可能である。しかし信仰とは、人間の手によって実現できるものではない。なぜか。先ほどこういう話をした。危険を避ける為なら旅立たないことを選ぶに決まっているのになぜアブラハムは旅立ちを決断したのか。それは彼に旅立ちの決断をさせる何かが働いたからだ、と申し上げた。目に見えない何か、言葉で説明できないその何かこそが神の働きかけであるだと。そうも申し上げた。その神の働きかけこそが信仰であると、今はっきりそう申し上げたい。宗教改革者ルターは、「信仰とは、その人に働く、目には見えない神の業である」と言った。信仰とは自分の思い通りにはならないものである。欲しい時に手に入るものでもない。なぜならそれは自分の外から迫ってくる目に見えない神の力だからである。無意識の内に自分の心が何かへと神によって促される、その促しのことだからである。いったい何時、どういう時に、どこから来るかも分からないその促しこそが、神の働きかけなのである。アブラハムが生まれ故郷を離れて旅立てたのは、偏にこの神の業なる信仰のみによってであったのだと、神が彼の背中を押したからなのだと、聖書はそう伝えているわけである。いずれにしても人は、神によって背中を押されたならば、神の促しによって旅立ったのであれば、その人は思い通りの人生とは全く違う道を歩み始めたのである。父の家、生まれ故郷を捨てるというのはそういう意味ではないだろうか。その人は自分の思い通りにならない人生、しかし思い通りにはならなくとも、神の御心が示され続ける人生の第一歩を踏み出したことになるのではないだろうか。アブラハムはまさしくその人生の第一歩を神の力によって踏み出させられた、世の最初の人間として登場しているのである。そして、神の約束は律法に頼ること、即ち文字通りの規則や人間が判断できてしまうことによっては実現されない。もし実現されてしまったら、信仰という神の働きかけは無意味なものになってしまう。その人を促し、立ち上がらせ、旅立たせる神の働きかけによってのみ、神の約束は実現される。信仰という名の神の業によってのみ、人は神が示される地に辿り着く。その神は、死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神であるのだと。先ほどの手紙の中でパウロはそう言っていたわけである。
あのアウシュヴィッツの収容所において、収容されたユダヤ人にとって何が最も重苦しいことであっただろうか。それは、いつまで自分がこの収容所にいなければならないかを全く知らないことだったそうである。何時釈放されるか全く分からないことだったそうである(フランクル、夜と霧、172)。そのような絶望の淵に立たされ内面が崩壊していく囚人が後を絶たない中で、その苦しみを耐え抜き、人間らしさを忘れなかった囚人には心の拠り所があったと聞く。旅立つ時のアブラハムもそうだったかもしれない。この旅が何時終わるかも、どこへ向かうのかも分からない。どんな危険が待っているかも分からない。内面が崩壊する危機をアブラハムも感じていたかも知れない。それでも彼を奮い立たせたのは神の働きかけ、それのみであったと先ほどの聖書は伝えていた。我々の人生にも似たような面はないだろうか。先のことは一切分からない。だからこそ人間は徒党を組みたがり、人の噂だとか評判だとか、様々なものを頼ろうとするがその都度裏切られる。そのような歩みを人間は繰り返している。しかし本当に求めるべき心の拠り所は神の働きかけであるのだと聖書は言う。なぜならば、神がアブラハムに求める以上に、神自らが父の家を捨てられたからである。生まれ故郷を離れて世に降り、我々と同じイエスという人間になって下さったからである。そこまでして、神自らがそのことを実践して下さっているのである。
「地上の氏族はあなたによって祝福に入る。」「祝福の源となるように。」アブラハムへのあの神の約束は、世にある全ての人間にも、神が働きかけて下さり、促して下さり、それによってその人の思い通りの人生にはならないけれども、神の御心が示される人生の歩みへと、神が全ての者をそのように導き出して下さる、その神の大いなる業を伝えているのではないだろうか。既に信仰を与えられている我々クリスチャンは、そのことにいち早く気づかされているだけに過ぎない。昔も今も人は皆、神の働きかけによって、思い通りにはならなくても、神の御心が示される人生を歩んで来たのではなかっただろうか。そしてこれからもそのように神は一人一人を歩ませようとしているのではないだろうか。なぜ神は我々に働きかけて下さるのか。我々の側にその根拠も理由もない。我々に神の目を惹くところなど全くない。それは全く神の自由なる決断である。神は何ものにも束縛されない自由なる方である。それ故に神は敵をも愛され、死に直面しても決して死なない永遠の命を働かせて下さる。その神の自由に基づいて、神は生まれ故郷を離れイエスという人の姿となり、敵であった我々人間を赦そうとされ、その為に十字架の死をも受け止められた。それが我々人間に対する神の愛である。そのイエスを死からよみがえらせることによって、思い通りの生き方にしがみついていた人間をその束縛から解放し、神の御心が示される新しい生き方へと、世にある全ての者を招いておられる。そうして神が示される地へ行け、と促しておられる。それがどこかは我々には分からない。しかし聖書は、それが全ての者の涙が拭われ、死もなければ悲しみも労苦も痛みもない、全ての者が喜びを分かち合いつつ神をほめたたえる神の国だと言う。そこでは健常者と障碍者の違いもない。勝者敗者の違いもない。一切憎しみのない、信じ合い、助け合い、支え合う世界である。その神の国へと、神自らが働きかけることによって、我ら一人一人を導こうとしている。まだ神を知らない一人一人をも招き続けて下さっている。その道を行くならば、思い通りにはならない人生の連続かもしれないが、しかしそれは神の計画が実現される人生の連続となる。神を信じて、神の働きに身を委ねるならば、その道のりをあなたもまた一歩前進できる。今、神はそう我らに呼びかけておられるのではないか。
人生はその人の思い通りになる為にあるものではないと私は思う。数年前のNHKの朝ドラ「朝が来た」の主題歌の中で、「人生は紙飛行機、願い乗せて飛んで行くよ、風の中を力の限り、ただ進むだけ、その距離を競うより、どう飛んだか、どこを飛んだのか、それが一番大切なんだ、さあ、心のままに」と歌われていたように、大切なのは思い通りに生きることではなく、来る日も来る日も力の限り生きることであり、それはあの神の呼びかけに応えることで初めて実現できるのではないか。その神の呼びかけに我々が声を合わせて、主よ、信じますと、アーメンと唱えるために今、ここに我々は生かされているのではないだろうか。