左近豊「塩の味わい」

 あなたがたは「世の光」「地の塩」である、とイエス・キリストは語っています。それは今居る場所で光として塩として生きることを促す言葉と言えるのです。では「塩」として生きるとは?

数年前のこと、伯方の塩で有名な瀬戸内海に浮かぶ大三島に行く機会があり、食塩がどうやって作られるか、工場見学をしました。

工場の一番奥に塩の原料となる原塩(天日海塩)の山がありました。大半がメキシコやオーストラリアなどから輸入されたものだと書いてありました。説明によると、外国から輸入した塩を、瀬戸内海の海水に何カ月もかけて溶かし、にがりやミネラル成分を吸収させ、再結晶させたあと、乾かし、濾過し、不純物を取り除き、巨大な釜で煮詰めるとのこと。そして体育館のような部屋にスノコを敷いて、何週間もかけて自然乾燥させて美しく美味しい塩を作るというのです。最初は、百パーセント瀬戸内海の塩ではないことを知って、なんとも残念な気持ちにもなったのですが、ふと、これも味わい深いな、とも思ったのです。

 別々の場所からもってこられた。けれども瀬戸内海の穏やかな海辺で、それまでとは違う海水と混じり合い、これに馴染み、良き成分を吸収し、それまでとは違うものへと再び結晶してゆく。そして不純物を取り去られ、練り清められ、美しく精錬されて、ついに他には無い独特の味わいを身にまとって、出荷されてゆく。いいな、と思ったのです。

私たちも、メキシコやオーストラリアではないけれど、国内外のいろいろな場所から、瀬戸内海ではないけれど、温かく、心の通った交わりが許される場所(教会)へと集められました。そしてここで互いに切磋琢磨しながら、にがりやミネラル成分ではないけれど、すでに与えられている持ち味が、さらに複雑でダイナミックな信仰の仲間や先達、近隣の方々との出会いを通して化学反応を起こし、違うものへと結晶化してゆく。ここでの生活は、塩が本当に「良い」もの、聖書では「美しい」という意味もありますが、教会の交わりには、何にも代えがたい美しいものが備わっていることを味わい知る経験だと確信するのです。そしてそれぞれに与えられている持ち場で、塩のように溶けて周囲と共に生き、腐敗を防ぎながら、味わいを引きだし、隣人を生かしてゆくものとされていることの妙味を噛みしめるものです。

 礼拝で、聖書を通してなされる魂への呼びかけに耳を傾け、また、日々心に抱える嘆き、訴え、不条理を覚えつつ、神の存在と正義を問い、そして畏れをもってみ前に崩おれ、自らを顧み、悔い改め、慰めを得、古い自分に死んで新しい人をまとい、生き方を正し、新たにされて踏み出してゆく時が与えられ続け、豊かで味わい深い人生へと招かれていることを、再結晶を繰り返して新たにされてゆく塩の味わいに託して感謝するものです。