過去の説教 · 2024/09/03
 主イエスはその日ある家で、大勢の人に語っておられました。これまでのように、人々を癒やされ、癒しを通して神さまのご支配とはどのようなものであるのか示され、神さまのご支配がもたらされているのだから、罪を悔い改めて、神さまのご支配の中で生きてゆくようにと語っておられたのでしょう。そこに、主イエスの母マリアと主イエスの弟たちが来ました。彼らは何か主イエスに「話したいことがあ」り、やって来たのでした。
過去の説教 · 2024/08/27
ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた「最後の審判」という作品がある。現場に行ってこの目で見てはいなくても、私もそうであるが、多くの人が写真などを通して必ずどこかで目にしたことがあるのではないかと思う。この絵の中心はイエス・キリストであるが、それは十字架の死からよみがえり、天に昇った後に再びこの世にやって来る再臨のキリストの姿である。最後の審判が何時起こるのかは神のみぞ知る謎である。ただその時は、この世の歴史が終わりを迎える時だと聖書は明言する。その時キリストは、死の眠りに就いていた全ての者を起き上がらせ、生き残っていた者たちと合わせて最終的に生ける者と死ねる者、分かり易く言えば救いに入れられる者と滅びへと追いやられる者を分ける、と聖書に書かれている。
過去の説教 · 2024/08/21
17世紀にトーマス・ホッブス(1588-1679)という政治思想家がいる。この人は、人間社会の自然状態は、「万人の万人に対する争い」の状態であると述べたことで知られるが、彼は、このような言葉も残していた。誰も自分を守ってくれない状況の中で、人間は何によって動かされるのか。それは「恐怖」であると。そのことを具体的に示す、次のようなたとえ話がある。
過去の説教 · 2024/08/12
 父なる神と子なるキリストと聖霊を通して示される神に、幼子のように全身全霊で向き合うことへと招く祈りをイエスキリストはされた後、言われたのです。 「すべて重荷を負って苦労している者は、私の下に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と。
過去の説教 · 2024/08/05
コロナの感染が拡大した時に私たちはそれまで大切に行ってきたことの多くを続けられなくなりました。会いたい人に会うことができない、大勢で集まることができない、些細なことであろうと深刻なことであろうと、会えば伝えられる気持ちをなかなか伝えることができない、思い描いていた自分の計画はタイミングも機会も奪われ、もしかしたら未来も奪われるかもしれない、考え始めると不安で押し潰されそうで、浅い呼吸しかできないような時間を過ごしました。そして私たちは自分の弱さ、脆さを痛感したのではないでしょうか。同時に、自分に力を与えてきたものを再発見したのではないでしょうか。タイミングや計画やチャンスや、大切な人の健康や命までも奪われてゆく長いトンネルのような時間が続いた時、見てきたものの中に見るべきものを見て取ることができるなら、力を得られることを知ったのではないでしょう。
過去の説教 · 2024/07/29
我々人間は、物を見ると直ぐに何かと比べたがる生き物である。見た目、中身、雰囲気、自分にとっての価値の有る無しなど。色々な角度から、ありとあらゆる手段を講じて、比べられる限りは比べようとしてしまう。しかも我々は物を比べるだけではなく、人間をも他の誰かと比べたがる生き物だと思う。人を安易に比べることで誰かを傷つけてしまうこともある。逆に、私にも経験があるが、無責任に他の誰かと比べられることで、心に傷を持ったことのある人もこの中にいるのではないだろうか。
過去の説教 · 2024/07/23
ある日主イエスはその弟子たちの内12人を、町や村に遣わされたことを先ほど聞きました。この箇所を、これは特別な12人の話だからと、横目で見るように通り過ぎてしまいがちな私たちでありますが、果たしてそうでしょうか。今日の箇所の直前に、この12人について述べられています。12人は、自分でそう思い立って、自分を人々の所に遣わしてくださいと、主イエスの所にやって来たわけではありません。主イエスが彼らを呼び集めました。彼らが選ばれたのは、その能力や資質が選考のための審査で認められたからとは書かれていません。主イエスが12人を選ばれ、呼ばれた、それが理由です。
過去の説教 · 2024/07/15
「指導者」と呼ばれるこの人は、役人、それも上に立つ役職の人であったのだろうと考えられています。この人も、律法を重んじていたことでしょう。そうでなければ神の民の共同体で、指導者として認められることは難しかったでしょう。そのような人が、律法を守ることができずにいる人々と食事をしている主のところへと来ることも、主イエスが人々から批判を浴びているその只中で主の前へと進み出てひれ伏すことにも、驚きを覚えます。この人を突き動かしていたのは、娘を失いつつある親の思いでした。
過去の説教 · 2024/07/10
 水への「渇き」は、命の維持するのに欠かせない疼きと衝動として感じるものです。断食で食べない期間があったとしても、水分は一日と飲まずにいることはできません。今日の詩編は、この命の疼きに重ね合わせるようにして、魂が求める「渇き」を呻くように絞り出しています。「鹿が涸れ谷で水を喘ぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」と。乾ききった川床に、どんなに水を求めても見いだせない鹿の喘ぎになぞらえて「神に、生ける神に私の魂は渇く」と。魂が干上がり干からびて脱水状態に陥っている状態を研ぎすまされた感性で捕らえて言葉にしているのです。 のどの渇きと魂の渇きを重ねて詩編42編は歌いますが、実は旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「のど」も「魂」もネフェシュという同じ言葉なのです。「のど」は息の通るところであり、神の息を吹き入れられて人は生きたもの(原語で「ネフェシュ」となった、生きた魂を持つものとされた(創世記2:7)。   人は「のど」だけが渇くのではなくて、「魂」もまた渇くものなのだ、と。
過去の説教 · 2024/07/02
湖に激しい嵐が起こり、沖に漕ぎ出した舟は波に吞まれそうになります。弟子たちはパニックに陥ります。弟子たちの中にはガリラヤ湖畔で主イエスから召し出された漁師たちもいました。ガリラヤ湖の気象も、舟の扱いも熟知しているプロの漁師たちが同乗していても為す術の無い嵐のただ中で、彼らは何を思ったのでしょう。自分たちは神さまのご支配の中へと進み行くはずではなかったのか、人間の力では太刀打ちできない嵐によって、主イエスの後に従う道も、自分たち自身も、ここで終わりとなってしまうのではないかと、混乱したことでしょう。

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