クリスマスの時期には教会という所はさぞキラキラした輝きと、完成度の高い聴かせる音楽に溢れていることだろうと思って教会を訪れてくださる人がいたら、期待していたような“クリスマスっぽさ”がないと思うかもしれません。勿論、華やかな飾りつけやプロの方たちのように聴かせる音楽を奏でる教会もあるでしょう。地味に見えようと華やかに見えようと、それぞれの教会はイエス・キリストの誕生を祝い、キリストが再び来たり給う時を待ち望んで、キャンドルの火を灯し、讃美の歌を歌います。美竹教会も、ここに真のクリスマスの喜びがあると、この時こそ神さまの恵みを世に証しする教会でありたいと願って、今年もアドヴェントの時を歩んでいます。
マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図に続く流れでクリスマスの出来事を記します。この系図はアブラハムから始まり、ヨセフの誕生までは「〇〇は〇〇をもうけ」という同じ表現で子の誕生が述べられてゆきますが、最後の主イエスの誕生は、これまでとは違う仕方で言われます。主イエスは確かにダビデの血筋にお生まれになったと、しかしこれまでの系図の延長線上にお生まれになったのではないことを示し、そして「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」と、クリスマスの出来事を語り始めます。そこで先ず述べられるのが、主イエスの母とされたマリアが聖霊によって身ごもったことです。主イエスは人の力によって誕生されたのではなく、何千年にも渡って、一つ一つの世代を導き、メシアをお与えになるとの約束に向かって救いの歴史を推し進めてこられた神さまが、マリアにおいて、ダビデの血筋にその約束を実現してくださったことが、系図と今日の箇所によって明らかにされます。
今この時、紛争や戦争によって苛烈な攻撃にさらされている人々が大勢います。国や地域の勢力間の対立の中、残酷な現実が日常となってしまっているところから、願っても抜け出すことができない人が大勢います。
私たちの身近な社会にも、被災した上に、復興の道筋が立たない中、生活も、健康も、心も押し潰されたままの人が大勢います。自然災害だけが復興を遅らせているのではなく、私たちの社会が抱えてきた、取り組み切れてこなかった問題が、被災した人々に圧し掛かっている面があることに胸が痛みます。
私たちも、それぞれに抱えている困難があるでしょう。それらも、この社会の様々な事柄と絡み合っています。この時代だからこその困難があり、この社会だからこそ解決が難しいという面があります。地上を歩む私たちは、その時代、その地域や社会から多大な影響を受け、関わりながら、この歩みが何よりも主に従う者としての歩みでありたいと、こうして礼拝毎に神さまのみ前に進み出て、神さまを仰ぐのです。
十年以上前に、NHKプレミアムで「エチオピアのクリスマス」という番組をやっていた。その内容は、クリスマスの日に向けて、ラリベラという聖地を目指して、エチオピアの様々な人々が巡礼の旅に出ていく様子をインタビューを交えながら紹介するものであった。ラリベラに向けて多くの巡礼者達がなんと五百キロ、千キロという途方もない距離を徒歩で、しかも裸足で歩いていく。番組では青ナイルの源流近くのある村から向かう巡礼者達を取材していたが、その巡礼者達は決して若くはない。七十台半ばの女性もいた。インタビュアーが彼らに無事に辿り着けるかどうか不安はないのかと聞くと、皆、神が共におられるので一切不安はない、と答えていた。その表情は実に晴れやかで、本当に純粋に信じている様子がよく分かった。インタビュアーが巡礼者達に、何故そんな大変な距離を歩いてまでして、クリスマスに聖地を訪ねたいのか、と尋ねると、誰もが、天国へ行きたいからさ、当たり前のことを聞くな、と答えていた。
赦せないことに苦しむこと、悲しむことがあると思います。赦すことがその人のためになるとは思えないから許さないという道を取ることも少なくないと思います。それは赦していないことなのか、それともある部分までは赦しているということなのか、よく分からないということもあるでしょう。悪い行いに対して罰を定め、それは実行されたけれども、だからといって赦せない思いが心から消え去らないということもあるでしょう。赦しということを、謝罪の申し出を受け入れるという意味で考えているのか、それとも責任を免じるという意味で考えているのか、自分でもよく分からない、相手もどう捉えているのか分からないということもあるでしょう。分からないままに、人との関係に迷ったり、悩んだりする私たちです。
礼拝で私たちは、私たちを招いてくださる神さまのもとに集い、み前に進み出ます。憐れみによって私たちを救ってくださる神さまのみ前では、私たちは死への恐れを抱えている自分のままでいられます。人の前では平気な振りを装うことがあっても、神さまのみ前では繕う必要はありません。死がいつか訪れることへの不安、死そのものへの不安、自分の人生や生活や人との関りが断ち切られることへの不安があります。死へと向かう途上、肉体の重荷が増え、機能や力が失われてゆくことへの不安、愛する者が変わってゆくことへの不安、愛する者の存在とつながりが奪われることへの不安があります。詩編116編が綴っているように、死は生きている者の日々を侵します。
ある父親が息子を連れて主イエスを訪ねてきました。しばしば発作に襲われてきた息子です。発作を起こし、意識を失って倒れればどこかを必ずひどく打ってしまいます。それによって深刻なダメージを受けるかもしれません。父親は、発作の際に火の中や水の中に倒れることがあったと言います。既に火傷を負ったり溺れたことがあるのでしょう。いつ発作に襲われるか分からず、深いやけどやひどい怪我、重い後遺症を負うかもしれず、溺れるかもしれない、死んでしまうかもしれないと、親は日々どんなに胸を痛めてきたことかと思います。
主イエスが多くの病人を癒やされたことを伝え聞いていたのでしょう。父親は主イエスに自分の息子も癒していただきたいと思い息子を連れてきたのですが、その時主イエスはおられませんでした。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちを連れて高い山に登っておられたのです。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア。彼の時代のアメリカでは黒人が白人に当たり前のように差別され、洗面所もバスの座席も黒人が隅の方に追いやられていた。差別される側にとっても差別する側にとっても、それはごく自然のことであったと言う。その現状を正すため、キングは「非暴力」による差別撤廃を目指し、バスに乗らないように訴えた。その時、バスをボイコットして歩いた人たちが歌ったのが、先程の讃美歌(Ⅱ164)、“we shall overcome”(我々は必ず勝利する)というゴスペルであったと言う。その出来事を契機に、白人の中にも人種差別の矛盾を感じる者が続々と現れ、やがて黒人白人合い混ざった20万人もの大群衆によってあのワシントン大行進が始まった。そこで「わたしには夢がある。奴隷の子と主人の子が同じテーブルについて中むつまじく共に食事をすることを」、というあの有名な“I have a dream”で始まる演説がなされるのであるが、その時の大群衆もまたあのゴスペル、“we shall overcome”を歌いながら行進したという。
聖書には何度だって聴きたいと思うような主イエスの言葉が記されています。例えば、「心の貧しい人々は、幸いである」と祝福を繰り返すことから始まる山上の説教には、心にじんわりと染み入るような言葉が溢れています。聖書にはまた心に刻み付けたくなる主イエスの姿があります。ご自分を求めて集まってくる人々が、羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた主イエスの姿や、お腹を空かせた大勢の人々のために、僅かなパンと魚を取って、感謝してそれらを裂き、分け与えてくださった主イエスの姿に力づけられます。
しかし今日の箇所が伝える主イエスの言葉や姿には、非常に厳しいものがあります。赦しや安らぎを求める私たちの心をざわつかせ、強張らせます。そこまでおっしゃらなくても良いのではないか、厳し過ぎるのではないかと、抗う思いも起こるかもしれません。私たちを困惑させる箇所です。
フィリポ・カイサリア地方に行かれた主イエスは、この日弟子たちに、人々がご自分をなんと言っているのかと問われました。彼らは直ぐに人びとがどう言っているのか答えます。弟子たちの報告から、人々はまだ主イエスのことを理解していないことが分かります。領主ヘロデが勘違いをしていたように、主イエスのことを洗礼者ヨハネの生き返りと思う人もいれば、終わりの時にメシヤ、救い主に先立って再来すると人々に信じられていた預言者エリヤだと言う人もいる。中には預言者エレミヤだという人も、他の預言者だという人もいます。人々は概ね、主イエスは神さまから遣わされた特別な方だと、神さまが約束された救い主に先立つ預言者ではないかと思っていたようです。
ではあなたたちは私を何者だと言うのかと、主イエスは弟子たち自身の考えも問います。主イエスに従う者は誰でも、自分のこととして、主イエスはどのような方なのか考えることが問われます。考え、それを主イエスのみ前で言い表すことが求められます。主イエスは応えることを待っておられます。